2020年07月23日

日本の装飾テントにはなぜ「骨見せ」タイプがあるのか

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装飾テント(略して装テン)の鑑賞を続けている。2008年から始めたのでかれこれ12年も見ていることになる。

装飾テントには、鉄骨(構造材)をテント生地で隠す「骨隠し」タイプと、剥き出しにする「骨見せ」タイプがある(「一部だけ骨見せ」というパターンもある)。

そのことは鑑賞を始めてすぐに気づいたが、数年ほど経った頃、さらに別のことに気がついた。

「骨見せ」タイプがあるのって、もしかして日本だけなんじゃない?

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骨隠しタイプ

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骨見せタイプ

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一部だけ骨見せ

残念ながら私は海外の装テンを生で見たことはないのだが、インターネットでときどき外国のテントをチェックしている。また、外国映画を観ていて装テンが映っている場面が出てきたら、必ず注意を向ける。

これまでに国外の装テンで、骨見せタイプを見たことがないのだ。

さらに別の比較材料もある。『世界のテント』(Vol.1/1986年発行、Vol.2/1995年発行)という写真集があるのだが、そこに掲載されている世界各国(主に欧米)の装飾テントを見ても、「骨見せ」はない。

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この『世界のテント』という写真集の存在を知っている人は(テント業界の方を除けば)ほとんどいないだろう。一般書店に流通したものではないからだ。

『世界のテント』は、大阪で三進社印刷という印刷会社を営んでいた浅野穣一さんがつくった写真集。大変な労作だ。おそらく国内のテント業者向けに制作したのだろうと思う。私は2011年にこの本の存在を知り、古書店で入手した。

ある日、「骨見せタイプがあるのって日本だけなんじゃない?」と思いついて『世界のテント』をあらためて見返した。案の定、骨見せタイプは1点も載っていなかった。なぜ、日本の装飾テントにだけ骨見せタイプが存在するのだろうか。

推測だが、日本が「錆びやすい国」だからではないだろうか。

以前、テント職人さんにお話を伺ったことがある。この道数十年の大ベテランだ。その方がおっしゃるには、骨見せタイプより骨隠しタイプのほうが鉄骨が錆びやすいのだそうだ。

骨隠しタイプは、骨に雨水が伝ってとどまりやすい(あるいは湿気がこもりやすい)。そして乾きにくい。だから骨見せタイプより早く腐食してしまうというのだ。

高温多湿な日本の気候風土が、骨見せという施工法を生んだのではないだろうか。

ちなみに伝統的な日本建築は「真壁造り(しんかべづくり)」が基本である。柱や梁を隠さずに見せる工法のことだ。真壁造りが好まれたのは、日本が高温多湿だからだと言われている。

柱を壁で隠す「大壁造り」は壁の内部に湿気がこもり、部材が傷みやすくなる。だから部材を剥き出しにしてなるべく乾燥した状態を維持しようとする真壁造りが日本建築の標準になったのだ。

それと同じように、装テンの「骨見せ」も、日本の気候風土が要求した工法なのかもしれない。もちろん推測の域を出ない仮説だし、また一つだけではなく複合的な理由があるのかもしれない。ただ、そんなことを思いついたり、考えたりするのは楽しい。

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【余談1】

装テン鑑賞を始めた当時、僕が調べた限りでは(テント業界の方を除けば)装テンを鑑賞している人が他にいなくて、さびしい気持ちになったものです。

でも幸せなことに、今では全国に何十人かの装テン鑑賞者がいます。ツイッターには日々、#装テン のハッシュタグで様々な装テン写真が投稿されている。インターネットのありがたみを感じるのはこういうときです。

自分ひとりでは見ることができなかったはずの様々な装テンを、お互いに報告しあうことで知ることができるというのは、この上ない喜び。装テン鑑賞者がさらに増えることを願ってます。



【余談2】

どんなジャンルでもそうですが、長く鑑賞を続けていると、だんだん自分の中に「好み」が生まれてきます。また、「グッとくる」ポイントも意識するようになる。装飾テントに対しても、いつからか自分の中にそのような感情がめばえてきました。

鑑賞を始めた当初は、選り好みせず「かたっぱしから見る(撮る)」ようにしていましたが、そういう時期は過ぎて、今はピンときたものだけを撮影しています。

さらには「こんな装テンがあればいいのに」と、マイ装テン像を思い描くようにもなりました。「ピクトさん」の鑑賞では、そのような段階を経て実際にオリジナルの転倒系ピクトさんをデザインするに到ったのですが、装テンをオリジナルでつくるのはさすがに難しそう。でも夢想してます。

あと装テンのミニチュアもほしい。どこかのメーカーさんがつくってくれないかなあ。マグネット付きにするといいと思うんですよね。冷蔵庫にくっつけたり。絶対かわいいと思う。


【余談3】

『世界のテント』のVol.2には20〜30点ほど日本の装テンが掲載されていますが、浅野穣一さんは、日本のテントだけの写真集は出していません。出してくれたらよかったのになあ、と惜しく思います。

長年、装テン鑑賞をしていて思うのですが、日本の装テンは非常にユニークで、凝った造形のものが多い。中には「なんでそうなった?」と思うような奇妙なものもあるし、見ごたえがあるんですよね。

装テン鑑賞を続けるうちに、だんだん僕の中でテント職人さんへのリスペクトの気持ちが高まってきました。限られた条件の中で繰り広げられる創意工夫の数々を見るのは本当に楽しい。

心の中でテント職人のみなさんに拍手を送りつつ、今後も鑑賞を続けていきたいと思っています。

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テント職人の作業場



装テンコレクションの一部をこちらのサイトに載せています。
装テン souten : japanese awnings / 日本の装飾テント

『街角図鑑』(2016年、実業之日本社)に装飾テントについて寄稿しています。




posted by pictist at 16:02| 都市鑑賞

2020年07月11日

「気になる家」シリーズ

個人宅の写真をときどき撮ってるんですが、そのほとんどはネットに載せていません。仮に載せたとしても、具体的な所在地は書かないでしょう。

でも例外があります。それは、その家が消滅したとき。

というわけで、過去に撮った住宅写真の中から、今は存在していないものを以下にご紹介します。現在は更地になってたり、別の家が建ってたりします(いずれもなくなったのは2010年以降)

これらは自分の中で「気になる家」と呼んでいるシリーズです。


(1)岡山市北区寿町にあった家。近所の方の話によると戦前の建物だったそうです。

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正面右側から。

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裏側。

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(2)岡山市中区門田屋敷にあった家。こちらもかなり古かったのではないでしょうか。窓も木枠だし。

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このあたりの絡み合いにグッときました。

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(3)そしてここ! 岡山市北区古京町にあった家。すごくないですかこれ。なんというか、「ぜんぶ異形」じゃないところがいい。普通の姿に、一ヶ所だけ異形がくっついている。そこにクラッときます。

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コンパクトなかわいさもありますよね。

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他にもありますが、今回は以上です。

現存する「気になる家」をクローズな場で鑑賞するイベントをやりたいなあと前から思ってるんですが、思うだけで実行に移さないというお得意の日々を過ごしているうちにコロナ時代に突入してしまいました。






posted by pictist at 20:37| 都市鑑賞

2020年07月08日

さよなら「文化人の靴 創美」

さよなら記事が連続してしまって切ないですが。

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西大寺町商店街(岡山市北区表町三丁目)の「文化人の靴 創美」さんが閉店されました。製靴は昨年すでに終了して、在庫の販売のみ続けておられたのですが、とうとうこの日が来てしまいました。2016年に制作した岡山芸術交流オルタナティブマップにも掲載させていただいたお店です。

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かわいい。

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創美さんの創業は戦後まもなくなので、70年以上続いたことになります。現店主は中学生の頃から商品の配達などを手伝っていたそうです。当時、コメディアンのトニー谷が「かかとに鈴を入れた靴をつくってほしい」とオーダーしてきたことがあったそう。歩くたびに鈴の音が鳴るようにと。

先代店主(お父様)がつくったその靴を、トニー谷の宿泊先まで自分が届けたのだとおっしゃっていました。

こちらが今シャッターに貼ってある閉店のあいさつですが、

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なんとその横にこんな貼り紙が!

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在庫限りなので選べるサイズは少ないかもしれないけど、最後に、記念に一足いかがでしょうか。

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創美さん、おつかれさまでした。以前購入した靴は今もだいじに履いています。




posted by pictist at 23:27| 都市鑑賞

2020年07月07日

さよなら竹中工務店岡山営業所ビル

竹中工務店岡山営業所(岡山市北区田町二丁目)のビルが今まさに解体されているのですが(営業所は移転済み)、中の方のご厚意で、解体が始まる直前にビルの中を見学させていただくことができました。

竣工は1962年(昭和37年)。

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この入口の長い庇、いいですよね。外観は、全体的には地味というか奥ゆかしい印象ですが、片持ちでこれだけ突きだしてくる庇にちょっとした意志を感じます。

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金属製の立体文字。タップ&拡大して見てみてください。2ヶ所ある「株式会社」や「岡山営業所」の文字の形が同じではないことが分かります。「竹」も違いますね。

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こちらは外観裏側の様子。パッと見、正面ととてもよく似ています。窓の並び方が正面とほとんど同じ。

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フェンスがコンクリート。無骨さにグッときます。

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存在感のある植樹桝。縞模様の痕跡があるので、ここにも上の写真と同じコンクリートフェンスが付いてたんでしょうね。

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岡山名物、鉄管スロープ。竣工時からあるものなのか、途中で代替わりしたものなのか。

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こういう全タイル張りのビルもだんだん少なくなってきてますよね。昭和の社屋ビルの流行りだったのでしょう。

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中へ入ると、

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階段がすごくよかった!

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中のタイルはこんな感じ。外壁より薄めです。

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ドアハンドル。

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1階の廊下の天井だけナミナミになってて、凝ってました。

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給湯室の水屋。

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金庫のエンブレム、文字が右書き。

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シンプルなトイレマーク。これは竣工時にはなかったはずです。トイレピクトグラムが普及したのは1964年以降なので。

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「火災報知器」この文字はオリジナルでしょうか。機械彫刻用標準書体とも違うような。

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和室もありました。聞くの忘れたけど、なにに使ってた部屋なんだろう。最近のオフィスにはないんじゃないでしょうか。畳とふすまの部屋。

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押すメタル。

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廊下の面格子がすごかった! これはオーダーメイド品なのでは。

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外観がおとなしいので油断してましたが、中に入るとこういうハッとするポイントがいくつもありました。さっきの天井のナミナミとか、コンクリート階段とか。

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屋上に煙突が。

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空調用ボイラーの煙突だそうです。外壁に合わせてタイルが貼ってあります。

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お忙しい中、見学会を開いてくださった竹中工務店さん、どうもありがとうございました。

この翌々日に、外観を撮るためにもう一度足を運んだんですが、行ってみると、iPadを持って外観の写真を撮っている女性の方がおられました。

竹中工務店の方かなと思って声をおかけすると、以前勤めていた元社員さんとのこと。社屋がなくなるということで、写真を撮りに来られたのでした。

きっと、良い思い出をお持ちなのだろうなあと思いました。






posted by pictist at 17:40| 都市鑑賞

2020年06月23日

「洋風住宅にシュロ」ジョサイア・コンドル起源説

10年前に書いた「シュロ景」の続き、いわば「シュロ景2」です。



シュロは在来種であり、古くから鑑賞用の庭木として定着していた。それが明治時代に入って「洋風化」していく。2010年、「シュロ景」(『生活考察』Vol.2)に書いたように、私はそれを南国趣味の影響によるものだろうと考えていた。シュロがヤシの木に似ているから、南国(南洋)=楽園のイメージを重ねたのだろうと。

その推測は今でも半分は正しいと思っているが、その後、さらに別の考えを持つに到った。そもそもなぜ、日本人は洋風住宅にシュロを植え始めたのだろうか。考えてみると、南国風と西洋風はイコールではない。たしかにシュロは、枕草子の時代から「異国風」だと思われ続けてきた変わった木ではある。それにしてもなぜ、シュロが選ばれたのか。

私はイギリス人建築家、ジョサイア・コンドルがそのきっかけをつくったのではないかと思っている。

コンドルが設計した岩崎久弥 茅町本邸(旧岩崎邸庭園洋館、1896年/明治29年)には、現在もシュロが聳え立っている。竣工当時から植えられていたことを完全に証明するのは難しいが、1931年(昭和6年)に出版された書籍の掲載写真にははっきりと写っている。

また、これは現存しないが、同じくコンドルが設計した岩崎弥之助 深川邸洋館(1889年/明治22年)にも、写真でシュロが確認できる。

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上/岩崎久弥 茅町本邸(旧岩崎邸庭園洋館、1896年/明治29年竣工)
下/岩崎弥之助 深川邸洋館(1889年/明治22年竣工)
※2点とも『コンドル博士遺作集』(1931年/昭和6年)より。撮影年は不明だが、自然に考えるなら竣工時に撮影したものだろう。

さらに遡ると、あの鹿鳴館(1883年/明治16年)にもシュロが植えられていた。これもコンドルの設計である。いずれも庭の設計者は記録に残っていないが、コンドルは建築だけでなく庭園の研究もしていたので、彼が植栽の内容を指示した可能性は十分にある。

>>現在の旧岩崎邸庭園洋館の写真はこちら



ジョサイア・コンドルは1877年(明治10年)に来日したお雇い外国人で、日本近代建築の父と称される。工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)で教鞭をとり、数々の日本人建築家を育成した。

彼こそが、日本で「洋風住宅にシュロ」のきっかけをつくった人物なのではないだろうか。彼の影響で洋風とシュロの組み合わせが流行り始めたのではないか。私はそう推測している。

「シュロ景」でも紹介したように、正岡子規が1910年(明治34年)に「村落に洋館ありて椶櫚の花」という俳句をつくっている。「洋館にシュロ」が新しい風景として出現し、だんだん見慣れたものになってきた時期だったのだろう。

その後、大正期から昭和初期にかけて「洋館付き和風住宅(文化住宅)」が流行する。中流層の人々が「洋館」に憧れて建てたものだ。ここにもよくシュロが植えられた。洋館にシュロが植えられていたから、洋館付き和風住宅にもシュロを植えたのだろう。

その憧れは富裕層への憧れでもあった。シュロは洋風のイメージをまといながら、同時に「裕福さ」のアイコンにもなっていたはずだ。

>>昭和初期の洋館付き和風住宅(文化住宅)を再現した「サツキとメイの家」

戦後、高度成長期の戸建住宅に続々とシュロが植えられたのは、「シュロ景」にも書いたように南国ブームの影響もあったとは思うが、同時にシュロが当時、ある種のステイタスを感じさせる樹木だったからではないだろうか。明治以降、脈々と継承されてきた「上流のイメージ」が残っていたから、シュロは庶民の人気を得たのだ。

今のところはそのように考えている。



ジョサイア・コンドルはなぜ鹿鳴館や岩崎邸にシュロを植えたのか。理由は大きく二つあると考える。一つは彼が「19世紀のイギリス人」だったことだ。ヨーロッパでは当時、オリエンタリズムが流行していた。オリエントとはヨーロッパから見た「東方」全般を意味するが、特に中近東やインドを指すことが多かった。そしてヤシ科の木は、オリエンタリズムの要素の中でもポピュラーな記号の一つだった。

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『カイロの街並み』(プロスペル・マリヤ、19世紀前半)
フランス人画家によるオリエンタリズム絵画の例。ナツメヤシがシンボリックに描かれている。


ジョサイア・コンドルは1852年、ロンドンに生まれた。その3年前、1849年にはロンドン南西部にある王立植物園「キューガーデン」内に、巨大温室「パームハウス」が完成している。パームとはヤシ類のことだ。ここでは「東方」から集められた多種多様な熱帯植物を鑑賞することができた。パームハウスは大きな人気を博し、1851年には32万人超の入園者があったという。

この頃から、イギリスの上流階級の間でヤシの温室栽培が盛んになる。オリエンタリズムの流行もその要因だが、ヤシを収容できるほどの大型温室は、経済的な余裕を誇示するステイタス・シンボルでもあった(※1)。つまり当時のイギリスにおいて、ヤシの木は高級でおしゃれなアイテムだったのだ。ジョサイア・コンドルが生まれたのはそんな時代だった。

コンドルは24歳で来日し、大学で建築を教える傍ら、明治政府の要請で様々な建物を設計する。彼は当時のイギリスで主流だったヴィクトリアン・ゴシックをベースにしながら、イスラム風を折衷した建築を試みた。「西洋建築そのもの」を期待していた政府は、途中でそれに気づき苦言を呈したこともあったらしい。

例えば鹿鳴館はフランスのルネッサンス系スタイルをベースにしているが、イスラム様式の装飾が施されており、ベランダの柱頭にはヤシの葉のキャピタル(柱頭飾り)が取り付けられていた。そう、ヤシの葉である。

政府との契約が終了したのち、コンドルは岩崎家のパトロネージによって設計事務所を開業し、数多くの邸宅建築を手がけるようになる。岩崎弥之助 深川邸洋館は、コンドルによる最初の邸宅建築だ。全体的にはエリザベス様式だが、塔屋の一つがイスラム風の玉葱形ドームになっている。まさにこの塔屋の下にシュロが植えられている。

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岩崎久弥 茅町本邸(旧岩崎邸庭園洋館)はジャコビアン様式を基調に、ルネサンスやイスラム風などいくつかの様式を折衷している。

このような作風が、コンドル自身がシュロを選んだと推測する二つめの理由である。彼はおそらく、イスラム風のオリエンタルな要素と、日本の風土の接点としてヤシ科の木であるシュロを選んだ。

逆に、オリエンタルなテイストを持ち込んでいないその他のコンドル建築には、シュロは植えられていない。このように、建築の様式とシュロの組み合わせに明確な意図を感じられる点が、コンドル起源説の最大の根拠である。彼にはシュロを植える理由があった。

日本人はそうしたヨーロッパ側からの目線を共有していないにも関わらず、なぜかこの演出を好んで受け入れた。もともとシュロに異国っぽさを感じていたからだろう。

こうしてシュロは、古くからある寺社の境内にも、新しい洋風建築の庭にも似合ってしまうという二重性を持ち始めることになる。

さらにその後、後者のイメージ(洋風)の中にもう一段階、二重性が宿るようになる。それは「海」と「砂漠」だ。この真逆とも言える二つのイメージがシュロの中に同居している。私たちはシュロを見て海を思い浮かべることもあるし、砂漠を思い浮かべることもある。前者は南洋・島・砂浜のイメージであり、後者はアラブ・隊商・オアシスのイメージだ。

コンドルがシュロに託そうとしたイメージは後者だが、今は前者が優勢かもしれない。いずれにしても、シュロは常に「見立て」の中に立っている。この不思議な樹木を、私は今後も見つめ続けるだろう。



「洋風住宅にシュロ」ジョサイア・コンドル起源説。以上はあくまでも推測だが、状況証拠はある程度、提示できたのではないかと思う。実は今年2020年は、コンドルの没後100年にあたる。彼は日本文化によく親しみ、日本で家族をつくり、日本に骨を埋めた。東京・護国寺の墓所に眠っている。



※1 こうした嗜好は当然ながら植民地主義に支えられていた。イギリスの植民地のほとんどは熱帯地域だった。ヤシの木はその象徴でもある。

参考文献:
『ジョサイア・コンドル』(建築画報社、2009年)
『装飾デザインを読みとく30のストーリー』(鶴岡真弓、日本ヴォーグ社、2018年)
「英国の温室の歴史と椰子のイメージ」(新妻昭夫、『園芸文化』2004年6月)






posted by pictist at 15:54| 都市鑑賞

2020年06月11日

旧岡山刑務所の痕跡

現在、岡山市立中央図書館と二日市公園(岡山市北区二日市町)がある敷地には、1969年(昭和44年)まで岡山刑務所があった。この地に刑務所が置かれたのは1874年(明治7年)のことで、当時は「懲役場」と呼ばれた。その後「岡山監獄」と改称し、1922年(大正11年)より「岡山刑務所」となる。

二日市公園の南側には花崗岩の基礎が残っており、また一部、コンクリート塀の跡も見られる。

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岡山刑務所は1945年(昭和20年)の岡山大空襲で壊滅している。しかしコンクリート塀は残った。下の画像は米軍が終戦後、1946年(昭和21年)に撮影した映像よりキャプチャしたもの。

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デジタル岡山大百科|終戦直後の岡山(映像編:旧岡山刑務所の映像)より

周囲に水路があったことが分かる。現在は暗渠。

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デジタル岡山大百科|終戦直後の岡山(映像編:旧岡山刑務所の映像)より

残ったコンクリート塀は再建後も利用され、刑務所の移転後に解体されたのだろう。

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ところで、少し気になるのが上記の石積み(南側・旭川寄り)と、下記の石積み(南側・岡南町寄り)の雰囲気が異なることだ。

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なぜなのか気になるが、謎としてここに置いておく。隙間がセメントで固められているのは後年の修復によるものだろうと推測している。

この地にはかつて岡山藩の米蔵があった。『岡山刑務所の沿革』(昭和27年)に下記のような記述がある。

《この土地は旧岡山藩の米廩であって一歩蔵と言われていたのを修理改築して懲役場に充てたもの》

※米廩(べいりん)=米蔵のこと



この石積みがいつごろつくられたのかは分からないが、敷地を高くしたのは河川(旭川)のすぐそばだからだろう。旭川はたびたび氾濫したため、流域では石積みによって敷地を高くすることが多かった。今もあちこちに古い石積みが残っている。

さらに言えば、岡山は花崗岩の産地なので石造物がつくりやすかったという背景もある。

有名な文化財だけではなく、こうした日の当たらない遺物にも、実は「その土地らしさ」「岡山らしさ」が宿っているのだ。


【2020.8.26追記】

上記で石積みの様子が異なると書いた件だが、もしかすると空襲による火災の跡なのかもしれない。

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右側に見えているのは酒造メーカーの建物だが、これは戦後再建されたもので、元の建物は岡山大空襲で焼失したのだそうだ。この距離なので、炎は石積みも焼いたに違いない。

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花崗岩(御影石)は熱に弱い。だから石材の中で唯一、御影石にはバーナーで焼いて表面を粗くする加工法・ジェットバーナー仕上げがある。炎を当てると、バチバチと音を立てて石の表面が弾け飛ぶのだ。

この石積みの妙な劣化は、空襲火災によるものなのかもしれない。西側の石積みがきれいなのは、そちら側では火災が起こらなかったからではないか。あくまでも推測である。はたして、どうだろう。




posted by pictist at 00:48| 都市鑑賞

2020年06月09日

日本家屋の廃薬局

いろんな会社の経営者および従業員の方にお話を伺って、その内容を文章にまとめるというような仕事を長年やってるんですが、訪問先で必要以上にテンションがあがることがたまにあるんです。たとえば石灰工場の取材をしたときなんかは、夢中で写真を撮りまくりました。

過日、ある医院の取材をしたんですが(まだコロナ前で直接取材ができた頃)、そこですごいものを見まして。古い日本家屋の一室で営まれていた薬局の跡です。

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具体的な場所は書けませんが、岡山県内です。明治時代に建てられた家屋で、昭和に入って大幅な改装をしたとのこと。本業の医院とは別に、少し離れたこちらの建物でご親族の方が薬屋さんをしていたそう。

日本家屋と薬瓶の組み合わせが抜群によかったです。そんな作品はなかったと思うけど、なんとなく横溝正史の世界を思い浮かべたり。





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posted by pictist at 18:33| 都市鑑賞