2024年09月12日

スマートシティとキノコとブッダ

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石川初さん(ランドスケープアーキテクト、慶應義塾大学環境情報学部教授)の共著書『スマートシティとキノコとブッダ 人間中心「ではない」デザインの思考法』がもうすぐ発売されます。本書を一足早くご恵投いただきました。なぜかというと、私が2013年に発案した「後ろ向きな絵手紙」が紹介されているからです。

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慶應SFC石川初研究室ではこれまでに何度か「後ろ向きな絵手紙」を課題に使ってくださっているのですが、今回、本書の第4章「人間中心「ではない」思考法 練習編」の中で練習問題の一つに入れてくださっています。

ちなみにこれは以前、イラストレーターのオオスキトモコさんと私が一緒につくった「後ろ向きな絵手紙」。

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本書がテーマに掲げているのは「発見的で開眼的な創造性」。それを身につけるための練習の一つというわけです。

《人類学的な言い方であれば「野生の思考」や「ブリコラージュ」、思考法的な言い方であれば「等価交換」や「エフェクチュエーション」、デザイン的な言い方であれば「予期せぬ発見」や「見立て」》
『スマートシティとキノコとブッダ 人間中心「ではない」デザインの思考法』 序章より

まだ読み始めたところですが、本書には、目の前に広がる世界をもう一度捉え直すための「考えるヒント」がたくさん詰まっていると思います。啓発的でありながらも、分かりやすい答えを提示するようなノウハウ本ではない。都市や文明や人間を「どう捉えるか」「どう考えるか」を今までとは違うアプローチで模索し、広義のデザイン思考を鍛える本です。

『スマートシティとキノコとブッダ 人間中心「ではない」デザインの思考法』
著者/中西泰人、本江正茂、石川初
定価/2,500円+税
仕様/360ページ
発売日/2024年9月19日
出版社/ビー・エヌ・エヌ


【目次】
序章──スマートシティとキノコとブッダ
発見的・開眼的に創造する
人間中心主義を超えて──東洋的な思考を身につける

第1章 人間中心「ではない」デザインの思考法 理論編
問いと答えと、解き方の関係と順番
モノの価値を発見し開眼させる:ブリコラージュ
答えから答えが生まれる
受動的でありつつも能動的でもある
無分別智で新しい組み合わせを発見する
無分別智を繰り出す心と身体
無分別に発想する
無分別智と無心

第2章 人間中心「ではない」デザインの思考法 対話編
テクノロジーを/が生成する新しい人間
人智を超えたテクノロジーに向きあう
「スマートシティ」は人類の知性や徳を上げてくれるのだろうか?
中西泰人×本江正茂×石川初キックオフ鼎談
オルタナティブな知性に対する「想像力」と、人間中心主義を反転させる「デザイン」の可能性
ゲスト:久保田晃弘
情報の分解・編集から立ち現れる不可視のスマートシティ
ゲスト:豊田啓介
キノコの知性、森の知性。人間の想像を超えた知のネットワークが都市のビジョンを変革する
ゲスト:深澤遊
人はスマートシティにもパンジーを植えるのか? テクノロジーに飲み込まれた第三風景にも抗う「亜生態系」
ゲスト:山内朋樹
宗教と神話がつくり出してきた「ヒトと異なる知性」。ヒューマンセンタードを超えたワイズフォレストを求めて
ゲスト:石倉敏明
「発酵」という世界の窓から覗く、人間と生物とロボットのいる生活風景
ゲスト:ドミニク・チェン
根っこを持った人工知能。スマートシティの下半分を考えていく
ゲスト:三宅陽一郎
朽ちゆく「近代都市」をリ・デザインする。人と自然が共創する「食べられる森」
ゲスト:ACTANT FOREST
都市に生える場所
ゲスト:津川恵理

第3章 人間中心「ではない」思考法 実例編
チーバくん
壁の本
4分33秒
Lo-TEKとFAB-G
わらのワークショップ
スツールのバリエーション
百均造形
役に立たない機械
ファスナーの船とファンタジア
家具型ロボットFurnituroid
マイブームと民藝
東京R不動産と開放系技術

第4章 人間中心「ではない」思考法 練習編
咄嗟の工作
そそる謎メニュー
ヒマワリゲリラ
どこかの地面
植物に名前をつける
20倍の都市
ゴジラになって都市に棲む
鑑賞ガイドをつくる
コーラを薄めながら飲む
後ろ向きな絵手紙
5年寝かそう
21世紀が展示される博物館
パンジーとして詠む
レプリカントになってみる

終章──無分別智を共鳴させ縁起的な網を繕う
他者や他種と一緒に考える
考える都市の中で考える
偶然の網を紡いでいく
他力を受け入れ自力を超える
人間中心「ではない」デザインの思考法へ


【あわせて読みたい】
「後ろ向きな絵手紙」が文学フリマに登場
後ろ向きな絵手紙をつくったよ(今さら)

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2024年06月17日

岡崎隼人『だから殺し屋は小説を書けない。』

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岡山在住の小説家、岡崎隼人さんの『だから殺し屋は小説を書けない。』を読んだ。発売されたのは今年の3月。本作は、第34回メフィスト賞受賞作家による18年ぶりの新作である。これは主人公の殺し屋が、ある小説家に出会って「生まれ直す」物語だ。

※以下、本作後半の展開に触れます。

主人公は第二章のラストで重傷を負って海に沈む。彼は、一度は死を受け入れる。「やっと終わる」と思う。死という安寧に身を委ねる。しかし自分と一緒に沈むボールペンに気づき、それを握りしめ、再び生きようとする。そのボールペンは、彼が敬愛する小説家のものだ。

彼に「生きたい」と思わせたものが「小説家のペン」だったことに、私は心を動かされる。それは、岡崎隼人という作家自身の祈りのようだ。長いブランクを経て復活した著者が、海底を蹴って浮上する主人公の姿に重なる。暗い海面から顔を出して思い切り呼吸をしたとき、彼はもう一度生まれたのだ。

岡崎さんによると、すでに次作を執筆中とのこと。楽しみです。

『だから殺し屋は小説を書けない。』
著者/岡崎隼人
出版社/講談社
発売日/2024年3月14日
定価/2090円(本体1900円)
ページ数/288ページ
ISBN/978-4-06-534810-9

版元ページ→ 講談社BOOK倶楽部|だから殺し屋は小説を書けない。


posted by pictist at 11:33| レビュー

2022年10月21日

助けを求めているクマ(岡山芸術交流2022)

プレシャス・オコヨモン《太陽が私に気づくまで私の小さな尻尾に触れている》を鑑賞して考えたこと

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「岡山芸術交流2022」が岡山市で開催中だ。メイン会場の旧内山下小学校に、プレシャス・オコヨモン(Precious Okoyomon)の《太陽が私に気づくまで私の小さな尻尾に触れている/Touching My Lil Tail Till the Sun Notices Me》という作品が展示されている。水のない廃プールの底に横たわる、巨大なクマのぬいぐるみである。

このクマは白い下着を穿いている。下着は直接的には陰部を保護するためのものだが、社会的には人間の性的羞恥心と結びついている。動物は性的羞恥心を持たない。私たちは一瞬、ただのぬいぐるみの中に、自分たちと同じ心の働きを見てしまう。作者はあきらかに、鑑賞者が人間を思い浮かべることを意図している。

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下着には小さなピンク色のリボンがついている。女性向けの下着によくあるデザインだ。ここで私たちは「人間の女性」を連想する。女性(または女の子)が、下着一枚の姿で寝転んでいる。あるいは寝転ばされている。

このクマを単なる「動物のクマさん」のままにさせておかない仕掛けがもう一つがある。股間の中央、ちょうど人間の性器にあたる部分に、わざわざハートマークが刺繍されているのだ。それが性的な存在であることを示唆するかのように。

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クマはプールの底に横たわっている。プールサイドに立つ鑑賞者は、必ずクマを「見下ろす」ことになる。私たちは最初から優位なところにいて、無抵抗な、下着姿のそれを、上から見つめる。

このクマは、さわってもよいことになっている。プールの底に降りてさわってもいいし、望むなら上に乗ってもいい。安心だ、相手は決して反撃してこない。私たちは最初から優位なところにいて、無抵抗な、下着姿のそれを、さわり続けることができる。

裏返せば、それは最初から抑圧されており、抵抗を許されず、ただ命じられた場所に寝転び続けている。どれだけ覗き込まれても、どれだけさわられても拒否することはできない。私はこの作品に、権力構造の中でおもちゃのように扱われてきた人々の姿を重ねずにはいられない。

本作の解説パネルを丹念に読みこんだ人はどのくらいいるだろう。そこにはこう書かれている。この作品が表現しているのは「the catastrophe of desire(欲望の破滅)」である。破滅するのは、誰の欲望だろうか。

プレシャス・オコヨモンは、2018年に同じくクマのぬいぐるみを使った作品を発表している。今回のような巨大ぬいぐるみではなく通常サイズのぬいぐるみだが、クマのお尻のあたりが破れており、中からシュレッダーで刻まれた書物の破片が飛び出ているというものだった。

作品のタイトルは《I NEED HELP》。それは、抑えつけられ、傷つけられてきた人々の切実な叫びだ。


【参考資料】
Tokyo Art Beat|「岡山芸術交流 2022」レポート。その"交流"が排除するのは誰か。


【補記】
プレシャス・オコヨモンと共有スタジオを持つアーティストで、ルームメイトでもあるショーン=キア・ライオンズ(Sean-Kierre Lyons)は、2021年のインタビューでこんな発言をしている。

「かわいいものが自分を攻撃してくるなんて、誰も予想しないでしょう。かわいさにはユーモアも隣り合ってるから、私はそれも作品に利用します。これは直接的な暴力を回避する私なりのやり方なんです」
>>KILLER CUTIES WITH SEAN-KIERRE LYONS

この考え方を、オコヨモンも共有しているのではないだろうか。本作の解説パネルにも「かわいさを概念的な戦略として利用し」と書かれている。そう、これは戦略だ。

「無力な、かわいいクマの女の子」は、自分を見下ろす者の「欲望」をじっと見つめ返している。

【関連記事】
岡山芸術交流2022について(参加辞退の経緯)

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posted by pictist at 19:31| レビュー

2022年03月15日

『はみだす緑 黄昏の路上園芸』

『はみだす緑 黄昏の路上園芸』
村田 あやこ(文、写真)
藤田 泰実(デザイン、イラスト)
発行:雷鳥社
定価 1,600円+税
ISBN978-4-8441-3785-6
2022年3月24日発行
版元ドットコム|『はみだす緑 黄昏の路上園芸』

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発売間近の『はみだす緑 黄昏の路上園芸』を一足早く拝読した。まっさきにお伝えしたいのは、本書は路上園芸「以外」も登場する本ですよ、ということだ。書名の副題に「園芸」という言葉が入っているが、本書は人間に飼われていない野生の植物(←この5文字に傍点を打ちたい)も取り上げている。そこが面白い。

村田あやこさんは都市で起こりがちな「植物の現象」を丁寧に拾い集める。

都市は当然、人間がつくったものだ。だから都市で生きている植物は、人間の営みと常に関係していると言える。園芸植物として育てられていようと、野良植物として道端に生えていようと、そこが都市なのであれば、どちらも「人との関わり」を持っているという点では同じだ。『はみだす緑 黄昏の路上園芸』は、その両方を見つめる。このレンジの広さが、本書の内容を豊かなものにしている。

たとえば、「緑のアパートメント(段差解消スロープの穴から顔を出す植物)」(29ページ)という現象は、誰かが意図的につくったものではない。段差解消スロープという都市の構成要素と植物が関わることによって生まれる「何か」だ。村田さんはそれを掬い上げる。

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路上園芸(軒先で育てる植物)にまつわるあれこれが本書のメインテーマだ。だからトロ箱も、室外機も、貝殻も、小人の置物も、猫よけペットボトルも登場する。さらに路上園芸を取り囲む事物についても描かれる。ガムテープで修繕された玄関ドア、スナックの店先に貼られた知らない演歌歌手のポスター、物干し竿がわりに使われる木の枝。そしてなにより、路上園芸を愉しむ人々。

本書はまちに暮らす架空の人物たちを通して、私たちと同じ都市生活者を見つめる。読むうちに、人がそこに暮らしている、人がそこで生きているという当たり前のことが、しみじみと胸に迫ってくる。

書名の「はみだす緑」には、おそらく二つの意味がある。一つは、石垣の隙間などからはみだしている野生の植物のこと。39ページに「はみだせ緑」と題した一文があり、「街の隙間で生きる植物を思わず応援したくなったときに発する言葉」と説明されている。

もう一つの意味は、路上園芸そのものだ。路上園芸の植木鉢は公道にはみだしていることが多い(帯文には「路上にはみだす植物愛」とも書かれている)。まちの人々は、はみだす園芸をなんとなく許容しながら暮らしている。そんな「包容力」についてのコラムが100〜101ページにある。

「はみだす緑」を鑑賞することは、「はみだしていてもいい」状況に出会うことでもある。本書のタイトル『はみだす緑』には、私たちの生きるこの世界が「はみだす」を肯定する場所であってほしい、という願いが込められているのかもしれない。

村田さんは植物を通して、人の暮らしを、都市を見つめる。

園芸の巧者を英語圏で「グリーン・フィンガーズ」と言うらしいが、さしずめ村田さんは「グリーン・アイズ」だろうか。読後、その眼を少し分けてもらえたような気がした。

ーーー

現在、『はみだす緑 黄昏の路上園芸』の刊行記念展が開催中です。写真やイラスト原画などを展示しているとのこと。著者が在廊するタイミングもあるみたいですよ。

【はみだす緑 解体新書】
期間:2022年3月14日(月)〜27日(日)
会場:BALLOND'ESSAI ART GALLERY 3F
(本屋のアンテナショップ「BOOKSHOP TRAVELLER」隣)
住所:155-0031 東京都世田谷区北沢2丁目30-11北澤ビル3F
営業日:月・火・金〜日 12:00-19:00 (休業日:水・木)

デザインとイラストを担当されている藤田泰実さんの絵がたいへんすてきで、本書の大きな魅力になっていると思います。原画を鑑賞できる貴重な機会です。ぜひ。

『はみだす緑 黄昏の路上園芸』は村田さんと藤田さんの共著ですが、まさに共著と呼ぶにふさわしい、「テキスト担当とイラスト担当」というような関係を越えた、お二人(SABOTENS)の作品になっていると思いました。



posted by pictist at 20:04| レビュー

2020年04月29日

『新写真論』

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書影はゲンロンショップより

大山顕の新著『新写真論 スマホと顔』を読んだ。「ゲンロンβ」連載時にも飛び飛びに読んでいたのだが、とにかく興奮性シナプスが発火しまくる(←誤用)内容で、「おー!」とか「ふおー!」とか何度も呻きながら一気に読了した。

大山さんとはずいぶん長いつきあいになるのだが、本書が面白すぎるので同い年である自分との落差を感じて少し落ち込みつつも、同時に「友達がこんなにすごい本を書いたよ!」とみんなに自慢したい気持ちでいっぱいだ。

僕は昔から「『見る』とはどういうことなのか/世界を知覚するとはどういうことなのか」を考えるのが好きな人間で、都市鑑賞活動をしているのもそうした動機がベースにある。『新写真論』はそんな僕の好奇心にガチハマリする内容だ。

ひとまず目次を見てください。ここに並んでいるワードを眺めるだけでも、読みたくなる人がいるのではないだろうか。いてほしい。

【スマホと顔】
01 スクリーンショットとパノラマ写真
02 自撮りの写真論
03 幽霊化するカメラ
04 写真はなぜ小さいのか
05 証明/写真
06 自撮りを遺影に
07 妖精の写真と影

【スクリーンショットと撮影者】
08 航空写真と風景
09 あらゆる写真は自撮りだった
10 写真の現実味について
11 カメラを見ながら写真を撮る
12 撮影行為を溶かすSNS
13 御真影はスキャンだった

【写真は誰のものか】
14 家族写真のゆくえ
15 「見る」から「処理」へ
16 写真を変えた猫
17 ドローン兵器とSNS
18 Googleがあなたの思い出を決める
19 写真から「隔たり」がなくなり、人はネットワーク機器になる
20 写真は誰のものか
21 2017年10月1日、ラスベガスにて
22 香港スキャニング
23 香港のデモ・顔の欲望とリスク

著者は本書のまえがきでこう書いている。

現在、写真は激変のまっただ中にある。写真というものが「地滑り」を起こしていると言っていい。「写真」という用語をあらためなければいけないとすら思っている。言うまでもなくこれはスマートフォンとSNSによってもたらされた。
(中略)
SNSとスマートフォンがセットになったときこそがほんとうの革命だった。その象徴が自撮りだ。従来の写真論の根幹のひとつである、撮るものと撮られるものとの間の対立をうやむやにしてしまった。

スマホとSNS以降に生きる私たちが撮ったり見たりしている「写真」は、もはや従来の「写真」とは違ってきており、別の名前が必要かもしれない「何か」になりつつあるのだ、と指摘している。では、どう呼べばいいのだろうか。

思いつきで言うが、それは「新写真」だろう。すなわち、本書『新写真論』は新「写真論」ではなく、「新写真」論なのだ。

ここは強調しておきたいところだ。書名だけを見て「(いわゆる)写真とかってべつに興味ないな」と思った人がいたとしたら、「ちょっと待って」と呼び止めたい。そういうんじゃないんです、と。

この本には「私たちの話」が書かれている。私たちというのは、日常的にスマホを使って、暮らしの中でなにげなく写真を撮って、それをシェアしたりしなかったりしている、世界中の私たちだ。AIや顔認証システムやドライブレコーダーやGPSやGoogleと共に生きていかなくてはならない、世界中の私たちだ。

これらのテクノロジーの普及が、人類史(都市、美術、コミュニケーション、知覚の歴史)の中でどういう意味を持つのかを、本書は考察している。

著者はこうも書いている。

これは写真だけの話ではないとぼくは思う。あらゆる領域で同じようなことが起こっている。

本書はたまたま日本に住む人間によって書かれたが、世界のどこの国の人間が書いてもおかしくなかった。

人類は、と言うと大げさに聞こえるかもしれないが、ほんとうに大げさでなく人類は今後、写真について語ろうとするとき、『新写真論』の内容を避けて通れないだろう。本書は、世界中でほぼ同時に起こっている新しい現象について考察しているからだ。

今、スマートフォンとSNSを無視して文明を語ることはほとんど不可能に近い。それと同じ意味で、今後『新写真論』を無視して写真を語るのはかなり難しいと思う。

……なんか興奮して大仰に書いてしまったので難しそうな本だと思われると困るのだけど、この本、分かりやすい文章でサクサク読めます。あと頭から順番に読まなくても大丈夫。エッセイ集みたいなものなので、気になったタイトルの章から読んでみて。

おでかけできない2020年のゴールデンウィーク、ぜひ『新写真論』で興奮性シナプスを発火(←誤用)させて巣ごもりを楽しんでください。Kindle版も出てるよ。

『新写真論』
大山顕
320ページ
株式会社ゲンロン
ISBN-10:4907188358
ISBN-13:978-4907188351
発売日:2020年3月24日
2640円




タグ:都市鑑賞
posted by pictist at 04:05| レビュー

2018年10月11日

『団地の給水塔大図鑑』

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小山祐之(こやま・ゆうし/日本給水党党首UC)さんが、シカク出版より『団地の給水塔大図鑑』を上梓されました。オールカラー224ページ。僭越ながら裏帯にコメントを書かせていただいてます。こんな素敵な本に書かせてもらえて光栄です。

本書は「団地にある給水塔」だけを400基超も収録した本。著者は10年以上にわたって全国各地の団地の給水塔を撮り歩いている、筋金入りの給水塔鑑賞者です。

一瞬「筋金入りの給水塔」みたいに見えたけど、著者のことです。筋金入りというのは。とはいえ実際、給水塔にも筋金って入ってるよね。コンクリートだったら。

なんの話だっけ。とにかく祐之さんがすごいということを言いたい。すごいというか、どうかしてるわけです。掲載しているのは400基超だけど、実際には660基の給水塔を訪れている。そして掲載されている写真を見てもらうと分かりますが、すべて青空をバックに撮影している。晴天を狙って撮ってるわけです。「曇り空だと給水塔が寂しそうに見えるから」と。ベッヒャーは曇天だが小山祐之は晴天なのである。

これ、近所ならいいよ。何度でも通えるし。でも泊まりがけで遠方の給水塔を撮りに行って、曇り空だったらどうする。雨模様だったらどうする。さあどうする。

祐之さんは出直すわけです。次の機会を待って、もう一度出かけるわけです。会社勤めをしながら。土日を使って。気が遠くなりませんか。

たとえば沖縄の給水塔には計3回行ったそうです(祐之さんは大阪在住)。観光旅行に3回行ったんじゃないですよ。「沖縄県営古謝団地」の給水塔を撮るためだけに3回行ったのです。1回目と2回目は曇ってしまったのだ。気が遠くなりませんか。

さらに。単に晴れていればいいというわけではなく、その給水塔を撮影したい方向に向いて、順光であることが条件。逆光で晴れていても意味がないわけです。だから撮影可能な時間帯が限られている。気が遠くなりませんか。

そんな鑑賞&撮影行脚の集大成が、この『団地の給水塔大図鑑』なのです。ザ・偉業。ジ・偉業か。

本書では給水塔の形状をボックス型、とっくり型、円盤型、やぐら型など12タイプに分類し、それぞれに解説を付しています。登れる給水塔、くぐれる給水塔、すべり台付きの給水塔、イルミネーション給水塔など、珍しい給水塔の紹介もあり。

こんなにたくさんの給水塔を、私たちは今日から、部屋にいながら鑑賞することができるのです。煎れたてのおいしい珈琲をいただきながら鑑賞することができるのです。ありがとうありがとう(藤岡弘、風に)。

もちろん実物を見に行くためのガイドブックとしても機能する本です。掲載しているすべての給水塔の(団地の)所在地を記載。これうっかり当たり前に受け止めてしまいそうになるけど、すごいよ。こんなデータベース今までなかったわけで。

団地の給水塔は現在では使われていないものが多く、年々減り続けています。本書に載っている給水塔にも、すでに解体されているものが多くあります(各給水塔が現存しているかどうかも記載されています。※2018年10月現在)。みんな今のうちに生鑑賞しておこう。

給水塔ファンにとっては本意ではないだろうけど、本書は、月日の経過と共にどんどん貴重になっていくはず。そして未来の誰かがある日、本書を見つけてこう言うでしょう。「よくぞ写真に撮っておいてくれた、ありがとう」と。



『団地の給水塔大図鑑』
小山祐之(日本給水党党首UC)
定価 2500円+税
224ページ・オールカラー
シカク出版
2018年10月6日初版
ISBN978-4-909004-75-8

通販ページ
http://shikaku.ocnk.net/product/1986

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タグ:都市鑑賞
posted by pictist at 03:21| レビュー

2018年08月02日

「金沢民景」的視点はどこででも実践できる

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前回からの続きです。書いてるうちにどんどん長くなって3回になりました。

もう一つ、山本さんのお話の中で印象に残ったのは「街はいつも成長過程にある」という言葉でした。街の住人たちは、地形や気候などに合わせて住空間をつくり、それを日々アレンジしながら暮らしている。その繰り返しで街は変化し続けています。

「そうした細やかな変化が積み重なり、集積して、やがて『その街らしさ』になってゆくのだろう」と山本さんは言います。

そう、金沢民景を読んでいると、「街は変わり続けている」という、よく知っているはずの事実にあらためて思い到ります。また、街の風景は誰か一人の人間によって計画されているわけではないのだということも、再認識させられます。行政や大資本がつくる大きな街並みがある一方で、住民が下から積み上げる生活サイズの街並みもある。

山本さんたちは、街の「今」が、なぜそのような姿になっているのかを知りたい。解き明かしたい。そのためには住人へのインタビューが不可欠というわけなんですね。このような街の見方・アプローチの仕方を、山本さんは「民景的視点」と言ってました。

この視点こそが金沢民景の最大の価値なのではないでしょうか。民景的視点は全国どこででも実践することができるはずです。金沢民景を読んで金沢に興味を持つ人が増えたり、あるいは金沢市民が自分たちの住む街を見直すきっかけになれば、それはもちろん素敵なことです。しかしそれとは別に、ここから「民景的視点」を学んだ人は、今度はその目線で自分の住む街を見ることができる。それはとても意味のあることだと思うのです。

山本さんたちも、最初から住人インタビューをしていたわけではないそう。でも街で気になったものを撮っていると、どうしても「これってどうしてこうなってるんだろう」と知りたくなってくる。そこでインターホンを押し始めたと。この勇気を出せるかどうかが、民景的視点を獲得するための第一歩かもしれませんね(私は苦手…(*_*))。

あと細かな感想で言うと、「金沢民景」は部材や様式の正式名称をきちんと表記しているところがいいですね。なんか得した気分になります。その点について聞いたら、やはり職業柄もあって、自然とそうしてしまうそうで。名称を確認しながら書いているとのことでした。

金沢民景には現在15名ほどのメンバーがいらっしゃるようです。みなさまの活動をこれからも応援しています。次号11号もできあがりつつあるとのこと。楽しみだー。

山本さん、お話ありがとうございました。




タグ:都市鑑賞
posted by pictist at 00:08| レビュー