2年前。『本の雑誌』増刊号『おすすめ文庫王国2021』に寄稿したエッセイ「路上の文庫、または都市を鑑賞する文庫」を以下に全文転載します。
「路上の文庫、または都市を鑑賞する文庫」
内海慶一『考現学入門』今和次郎 藤森照信・編(ちくま文庫)『考現学入門』は今和次郎の考現学関連エッセイを選り抜いて一冊にまとめたものだ。考現学とは、同時代の風俗や事物をスケッチ・統計等によって記録し、観察する学問のこと。提唱者の今和次郎は「何百年かの後の考古学者に余分な手数をかけさせないようにと現代の物の記録を作っておく」と冗談めかして説明している。彼はスケッチブックを片手に路上を歩きまわった。そして道行く人の服装から民家の雨樋、門柱、柵、火の見櫓、果ては野良犬まで、多様な対象を「採集」した。
本書を開けば、100年近く前の人々の生活や、街の断片を見ることができて興味深い。しかしそれより重要なのは、「ありふれたもの」を見つめた彼の目線そのものだ。
私も長年、考現学と似たような「都市鑑賞」活動を続けているのだが、よく知っているはずの日常を凝視していると、いわく言いがたい、ある独特な感動を覚えることがある。本書の価値は、時代は違えど、そうした目線を獲得する手がかりとなる点にあると思う。
今和次郎は「考現学とは何か」と題した文章の中でこう述べている。
「(考現学の)仕事に従事している間、われわれはわれわれ自身もそこで生活している舞台だということを忘れているのである」
つまり、まるで外国人か宇宙人のような眼で、自身の住む街を外側から見ようとしているのだ。
『考現学入門』の編者である建築家・建築史家の藤森照信もまた、そうした「ソトの眼」を持つ人物である。
『建築探偵の冒険 東京篇』藤森照信(ちくま文庫) 大学院で建築史を研究していた藤森は、仲間と「建築探偵団」を名乗り始める。建築探偵はカメラと地図を携えて路上を巡り、近代洋風建築をかたっぱしから見てまわった。この活動の中で藤森はある「発見」をする。
それは、東京の下町では誰もが目にしているはずの建築だった。ありふれていて気にもとめないものだった。しかし藤森の眼だけが、それを意味のあるものとして捉えた。
それは藤森によって「看板建築」と命名された。看板建築とは、建物のファサード(正面)を平板な衝立のようにして、銅板やモルタルなどで覆った木造の店舗併用住宅を指す。これらは関東大震災後の復興期につくられた町屋で、店主自身や大工によって設計された。画家が設計したケースもあったという。建築家の手によるものではないので、それまで研究対象にされたことはなかった。しかし藤森は看板建築に惹かれ、熱心に調査を重ね、学会で発表した。
誰もが見たことのあるもの・知っているものが、新しい眼によって「発見」される。私はこうしたできごとにとても興味がある。
『建築探偵の冒険 東京篇』で藤森は、看板建築のほか、東京駅や皇居前広場など、都民にとっては身近なスポットを独自の視点で鑑賞している。渋沢栄一を取り上げた最終章「東京を私造したかった人の伝」では、こんなことを書いている。
「街をほっつき歩いていると、異空間にまぎれ込んでしまったような気分に襲われる時がある。たいてい、こうした場所は、大通りからちょっと斜めに入り込んだあたりに広がっていて(中略)ここだけ時間がゆっくり流れているみたいに感じられる」
街歩きが好きな人には馴染みのある感覚だろう。ただ、私は街歩きや都市鑑賞を趣味に持つ前から、このような気分を知っていた気がする。10代の頃に読んだ萩原朔太郎の短編小説「猫町」は、私がありふれた街並みに魅力を感じるようになるきっかけとなった作品だ。
『猫町 他十七篇』萩原朔太郎(岩波文庫)「猫町」の語り手「私」は、ある日、散歩をしている途中で道に迷う。自宅からそれほど離れていない見知った街だったが、ふと知らない横丁を通り抜けて方角を見失ってしまう。
「私は道に迷って困惑しながら、当推量で見当をつけ、家の方へ帰ろうとして道を急いだ。(中略)ふと或る賑やかな往来へ出た。それは全く、私の知らない何所かの美しい町であった」
「私」は偶然出くわした趣きのある街並みを見て「一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう」と驚く。しばらく見とれていると、突然「私」の知覚が反転する。
「その瞬間に、私の記憶と常識が回復した。気が付いて見れば、それは私のよく知っている、近所の詰らない、ありふれた郊外の町なのである」
知っている街並みを、いつもとは逆の方向から見ているだけだったのだ。
「この魔法のような不思議の変化は、単に私が道に迷って、方位を錯覚したことにだけ原因している。(中略)そしてただこの変化が、すべての町を珍しく新しい物に見せたのだった」
ここまでが「猫町」の前半。後半で語り手の「私」はさらに不思議な体験をすることになる。この知覚の錯誤についての物語は、10代の私に大きな影響を与えた。世界は一種類だけではないのだ、と思った。
朔太郎は、この蠱惑的な日常世界を「景色の裏側」と表現した。私は、海外で出会うような非日常世界とは別に、自宅から数キロメートル内の日常の中にも非日常世界があることを知った。
『猫町 他十七篇』には小説のほかに散文詩や随筆が収録されており、自由詩以外の朔太郎を知るには最適な一冊となっている。散文詩「坂」や随筆「秋と漫歩」が特におすすめだ。朔太郎はいつも、路上で思索に耽っていた。
「猫町」を読んでありふれた街並みを意識的に見始めた頃、城昌幸の「ママゴト」という掌編小説に出会った。
『城昌幸集 みすてりい ―怪奇探偵小説傑作選4―』城昌幸(ちくま文庫)『城昌幸集 みすてりい ―怪奇探偵小説傑作選4―』には54の掌編が収められており、「ママゴト」はその中の一編だ。本作の語り手は、散歩中にふとした好奇心から、ある門前町へ入る。総門から寺まで続く道の両側には、数軒ずつ古風な店屋が並んでいる。荒物屋、呉服屋、酒屋、駄菓子屋、古道具屋、茶店。
後日、語り手は、この門前町のすべては一個人が趣味でつくったものだと知る。それぞれの店屋に主はおらず、ただ建物が並んでいるだけだったのだ。
「映画のセットのようなものだと云う。だがセットのように裏側がないというようなものではなく、きちんとした一軒のうちに造ってある。家財道具は勿論のこと、物干まで、ちゃんと出来ている」
寺を含めて、店屋すべてをわざわざその人物が建てたというのだ。そしてママゴトを遊ぶかのように、その実物大の箱庭を愛で、愉しんでいるのだという。
この短い物語を読んだあとに路上を歩いていると、「この街並みも空虚なつくりものなのではないか」と感じる瞬間がある。その一瞬の錯覚は、私になにかのヒントを与えてくれているように思う。そこには「景色の裏側」へ通じる扉が見え隠れしている。
著者の城昌幸自身、街並みや家々の佇まいを眺めるのが好きだったようで、毎日夕方になると必ず散歩に出かけていたそうだ。江戸川乱歩は城昌幸を「人生の怪奇を宝石のように拾い歩く詩人」と評したが、城が散歩好きだったことを踏まえると、この言葉の味わいがさらに深まる。
これらの散歩者・都市鑑賞者たちを遡ったとき、思い浮かぶ人物の一人が国木田独歩である。
『武蔵野』 国木田独歩(新潮文庫) 1898年(明治31年)に発表された「武蔵野」は、当時20代の若者だった国木田が、それまで誰も注目していなかった郊外の雑木林(落葉林)に美を見出し、その情趣を描いた散文作品だ。雑木林は薪炭林であり、人が常に手を入れて管理している二次林である。彼は、林と民家が入り交じり、自然と生活が絡み合うこの地の散策がいかに面白いかを綴った。
国木田はこう述べる。
「元来日本人はこれまで楢の類の落葉林の美を余り知らなかった様である。林といえば重に松林のみが日本の文学美術の上に認められて居て、歌にも楢林の奥で時雨を聞くという様なことは見当らない」
このように彼は、自分が日本の伝統的な美意識の外側にいる(外側へ出られた)ことを自覚していた。
国木田はなぜ「ソトの眼」を獲得することができたのだろうか。彼はそのきっかけも本文で明かしている。ツルゲーネフの小説「あいびき」に出てくる自然描写を読んだことで「落葉林の趣きを解するに至った」というのだ。国木田は現実の武蔵野そのものではなく、創作物(それも異国の)を通して武蔵野の風景に魅力を感じ始めた。
これと似た感覚に思い当たる人は多いのではないだろうか。小説以外でもいい。漫画、アニメ、映画、ゲームなどの創作物に触れて風景の見え方が変化したことはないだろうか。「あの作品に登場した風景みたいだ」と思うことによって、たとえば電信柱が、たとえば集合住宅が、たとえば橋梁が、突然輝き始める。
風景じたいは以前と変わっていない。変わったのは自分の眼だ。
本作の後半で国木田は、東京は「武蔵野」ではないが、東京の町はずれは「武蔵野」の一部であると言い、その趣を称えている。地理的な定義ではなく、概念としての私的な「武蔵野」を提示しているのだ。
「夏の短夜が間もなく明けると、もう荷車が通りはじめる。ごろごろがたがた絶え間がない。九時十時となると、蝉が往来から見える高い梢で鳴きだす、だんだん暑くなる。砂埃が馬の蹄、車の轍に煽られて虚空に舞い上がる」
これを読んだ当時の読者は、ツルゲーネフを読んだ国木田と同じ経験をしただろう。よく知っているはずの見慣れた郊外が、突然、詩情を帯びた特別な地となって輝き始めたに違いない。
『武蔵野』は国木田の初期作18編を収めた第一作品集。著者が当時20代だったことを思い出しながら、「新世代」の文学者の誕生に立ち会ってほしい。
『おすすめ文庫王国2021』(本の雑誌社)
880円(税込)
2020年12月7日発売
ISBN-10 : 4860114523
ISBN-13 : 978-4860114527
posted by pictist at 18:09|
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