2023年09月21日

三勲小学校のコンクリート球

岡山市立三勲(さんくん)小学校の塀に、直径50cmほどのコンクリート球が乗っている。国道250号線(旧国道2号線)沿いにあるので、岡山在住者なら見たことのある人も多いだろう。

IMG_6814.jpg

よき存在感。

IMG_6818.jpg

かなり年季が入っている。

IMG_6811.jpg

なぜ、ここに球が。

IMG_6821.jpg

球はこの一ヶ所だけで、他には見あたらない。

IMG_6816.jpg

コンクリート球の下に縦溝がある。実はこの溝、水害対策用につくられたもの。河川が氾濫したとき、ここに堰板を差し込んで水を食い止めるのだ。このコンクリート球は、緊急時に溝の位置がすぐに分かるように設置されたものらしい。

IMG_6791.jpg

これは国道をはさんだ向かい側に設置されている縦溝。こちら側にはコンクリート球はない。

このコンクリート球と塀は1938年(昭和13年)につくられたものと推測できる。なぜならその年に国道が新設されたからだ。この新国道は当時、三勲小学校の校地を貫くかたちで敷かれた。それに伴って三勲小学校は校地を大幅に改修した。だから国道沿いのこのコンクリート塀も同年につくられたと考えられる。

「国道を横断する堰板対策」は、今の感覚からすればずいぶん大袈裟に思えるが、当時の人々がこれを設置した気持ちはよく分かる。

1934年(昭和9年)。岡山市中心部は室戸台風によって甚大な被害を受けた。広範囲が浸水し、ここ三勲小学校の周辺も1メートル以上浸水したらしい。ほんの4年前にそんな経験をしているのだ。

このコンクリート球は、いわば岡山の水害の記憶だ。室戸台風に限らず、岡山は昔から水害に悩まされ、戦ってきた。その歴史を象徴する一種のモニュメントとして、このコンクリート球を捉えなおしたい。


【おまけ】
コンクリート球の北、国道が御成川(おなりがわ)を渡る位置に三勲橋という橋がある。裏付けとなる資料は見つかっていないが、おそらく三勲橋も国道造成・校地改修の年(1938年)に竣工したものだろう。前述のように、この国道は校地を貫くかたちで新設されたので、それ以前にはここに橋は存在していなかった。ただし、竣工当時から三勲橋と呼ばれていたかどうかは不明だ。

この橋もたいへん見ごたえがある。コンクリート球と併せて鑑賞してほしい。

IMG_6805.jpg

IMG_6797.jpg

IMG_6795.jpg

IMG_6796.jpg

IMG_6802.jpg

IMG_6800.jpg

IMG_6804.jpg

ちなみに三勲小学校は今年(2023年)、創立100周年を迎えます。

【参考文献】
『岡山市立三勲小学校創立七十周年記念誌』




posted by pictist at 06:09| 都市鑑賞

2023年08月30日

岡山ロスト散歩

岡山市内で撮影した写真の中から、現存しない建物・商店などを掲載します。ほとんどの物件は建物そのものが消滅していますが、中には姿を変えて建物が残っているものも一部あります。
※すべて2000年代以降に撮影したものです。

■ひろい日進堂(岡山市北区春日町)

IMG_5554.jpg

IMG_5554-3.jpg

IMG_5554-2.jpg

IMG_5556.jpg

IMG_5558.jpg

IMG_5555.jpg


■下之町食料品店(岡山市北区表町)

IMG_2487.jpg


■まちかど美術館サンホセ(岡山市北区駅元町)

IMG_0394.jpg

IMG_9612.jpg


■小野酒店(岡山市北区駅前町)

IMG_5163.jpg


■池田動物園のキリンの塔(岡山市北区京山)

IMG_7370.jpg


■池田動物園のゲームコーナー(岡山市北区京山)

IMG_0225.jpg

IMG_0228.jpg

IMG_7413.jpg

IMG_7429.jpg


■京山ロープウェー駅舎跡(岡山市北区京山)

IMG_3863.jpg


■京山ロープウェーのりば跡(岡山市北区京山)

IMG_3866.jpg

IMG_3859.jpg


■MIYOSHINO/カフェ・ド・パリ(岡山市北区駅前町)

IMG_5169.jpg

IMG_5168.jpg


■みよしの(岡山市北区駅前町)

IMG_5172.jpg

IMG_5171.jpg
※三好野本店さんは営業を続けています。


■常磐木(岡山市北区磨屋町)

IMG_9451.jpg

IMG_1008.jpg

IMG_9627.jpg

IMG_9630.jpg

IMG_9454.jpg


■岡山日活(岡山市北区表町)

IMG_1815B.jpg
※建物は残っています(2023年8月現在)


■きしもと洋装店(岡山市北区/新西大寺町商店街)

IMG_3390.jpg


■スターダスト(岡山市北区駅前町)

IMG_0387.jpg

IMG_0381.jpg


■琴(岡山市北区表町)

IMG_2501.jpg


■ミロール(岡山市北区表町)

IMG_2083b.jpg

IMG_2080.jpg


■六車理容館(岡山市北区田町)

IMG_1267.jpg

IMG_1266.jpg


■松森無線(岡山市北区表町)

IMG_2810.jpg

IMG_2813.jpg

IMG_2812.jpg

IMG_5582.jpg


■小西食堂(岡山市北区葵町)

IMG_3602.jpg


■サラリーマン食堂(岡山市北区出石町)

サラリーマン食堂.jpg


■こらーる岡山(岡山市北区岩田町)

IMG_8561.jpg

IMG_8560.jpg

IMG_6296.jpg


■UJOパーツ(岡山市北区内山下)

IMG_3918.jpg


■ヒツジヤ糸店(岡山市北区平和町)

IMG_3574.jpg


■LOLO(岡山市北区表町)

IMG_1984.jpg

IMG_1982.jpg


■鉢の木(岡山市北区平和町)

IMG_3780.jpg

IMG_3578.jpg

IMG_3781.jpg
※建物は現存(2023年8月現在)


■長谷川楽器 旧店舗(岡山市、新西大寺町商店街)

IMG_5409.jpg


■千日前商店街アーケード看板

IMG_8576.jpg


■吉田書店 旧店舗(岡山市北区表町)

R0011304.jpg


■タマヤ宝石店(岡山市北区本町)

IMG_9356.jpg


■神話(岡山市北区磨屋町)

IMG_3543.jpg


■春(岡山市北区磨屋町)

IMG_3416.jpg


■東京(岡山市北区田町)

IMG_1670.jpg


■チケットセンター岡山駅前店

IMG_5164.jpg


■木本歯科医院(岡山市中区門田屋敷本町)

木本歯科医院.jpg


■昭和初期築の民家(岡山市北区出石町)

IMG_9192.jpg


■清輝湯(岡山市北区清輝橋)

IMG_0787.jpg

IMG_0786.jpg


■旧東古松町内会公会堂(岡山市北区東古松)

IMG_0749.jpg


■長屋門跡と旧「安田火災」社章※保険加入印(岡山市北区番町)

IMG_0586.jpg

IMG_0585.jpg
火消しが使う「鳶口」が描かれた安田火災(元東京火災、現損保ジャパン)の社章で、保険加入者の家にこのマークをつけた。火災が発生すると東京火災の消防部が駆けつけ、鳶口マークが付いている家を守るという仕組みがあった。民間の消防隊として唯一消防庁に認められていた。


■量水室(岡山市北区北方)
※昭和初期か

IMG_7089.jpg

IMG_7088.jpg


■NTTコミュニケーションズ岡山中山下ビル(旧岡山市外電話センター)の通信鉄塔

IMG_6774.jpg

IMG_6773.jpg


■高橋商店(岡山市北区平和町)

IMG_3786.jpg


■岡山市北区駅元町の木造モルタル住宅
※向かって左が桑八地下道の入口

IMG_9763.jpg

IMG_9764.jpg


■藤原石油(岡山市北区岩田町)

IMG_4213.jpg

IMG_4215b.jpg

IMG_4218.jpg


■GBC大供ビル(岡山市北区柳町)

IMG_1436.jpg


■松本アパート(岡山市北区東古松)

IMG_0767.jpg


■寿市場(岡山市北区柳町)
※建物は現存/改装済

IMG_0943.jpg

IMG_0942.jpg


■北川製あん所(岡山市北区清輝橋)

IMG_8773.jpg

IMG_8771.jpg


■千日モータープール(岡山市北区表町)

IMG_1992.jpg


■メルパルク岡山(岡山市北区桑田町)

IMG_7914.jpg

IMG_7912.jpg


※本記事のタイトル「岡山ロスト散歩」は、ポルカ社さんのZINE『福岡ロスト観光』から拝借しました。

【あわせて読みたい】
・奉還町ロスト散歩
・「気になる家」シリーズ
・「気になる家」シリーズ(2)
・2021年に消滅した建物(岡山市)
・2022年に消滅した建物(岡山市)
・在りし日の旧北長瀬みずほ住座(1_NSペア)
・さよなら「文化人の靴 創美」
・さよなら竹中工務店岡山営業所ビル
・さよなら高島給水塔
・さよなら大正建築






posted by pictist at 00:42| 都市鑑賞

2023年08月09日

持ち送りコレクション

持ち送り(金属製のものは「持ち送り金物」とも言う)も見かけたら撮ってるんですが、だいぶ溜まってきたので掲載しておきます。

まずこちらはもっともよく見かけるタイプ。旭型と呼ばれています。

IMG_1062.jpg

集めているうちにだんだん分かってくるんですが、よく見ると同じ旭型でもデザインが少しずつ異なっていて、いろんな種類があるんですよ。下記の9点はすべてデザインが違うんですが、分かりますかね(右下のだけ長短の設置向きが違いますが、向きは関係なく、デザインが異なります)。

持ち送り_旭型.jpg
上段の3つと、下段の左と中の2つは特に違いが分かりにくいかもしれません。以下に一枚ずつ掲載しますので、拡大しながら見比べてみてください。

IMG_0055.jpg

IMG_1683.jpg

IMG_7374.jpg

IMG_6160.jpg

IMG_7176.jpg

IMG_4325.jpg

IMG_9722.jpg

IMG_5445.jpg

IMG_1063.jpg

その他の種を以下に16点、掲載します。これらもすべてデザインが異なります。似ているものは上下に並べて載せますので、これも見比べてみてください。

IMG_9724.jpg

IMG_8446.jpg

IMG_1061.jpg

IMG_2323.jpg

IMG_8394.jpg

IMG_9584.jpg

IMG_5324.jpg

IMG_5056.jpg

IMG_4120.jpg

IMG_1369.jpg

IMG_4323.jpg

IMG_1969.jpg

IMG_4481.jpg

IMG_0283.jpg

IMG_0067.jpg

IMG_0035.jpg


その他。以下の持ち送りは上掲と同じものを含みます。

IMG_8945.jpg

IMG_0146.jpg

IMG_2348.jpg

IMG_3952.jpg

IMG_7175.jpg





posted by pictist at 04:08| 都市鑑賞

2023年07月15日

続・柳川ロータリーの謎(大供ロータリー編)

以前、「柳川ロータリーの謎」という記事を書いた。岡山市の柳川交差点は、過去に一度もロータリー交差点だったことがないのに、なぜか岡山市民から「ロータリー」と呼ばれている。その謎を追ったものだ。

ざっくりまとめると、「柳川交差点はかつてロータリー化する計画があったが、計画は途中で変更された。しかしなぜか計画変更後もロータリーと呼ばれ続けることになった」という内容だ。

また、柳川交差点だけでなく市内6ヶ所の交差点(柳川、大供、大雲寺、清輝橋、十日市、門田屋敷)がロータリー化される予定だったが、同じく計画は変更され、すべて信号式の交差点になったという経緯も書いた。大供(だいく)交差点や大雲寺交差点も、なぜか「大供ロータリー」「大雲寺ロータリー」と呼ばれている。

その後の調べで驚きの事実が判明した。

その6ヶ所の交差点のうち、大供交差点は、かつて実際にロータリー交差点だった時期があるのだ。このことは完全に忘れ去られている。


大供交差点(岡山市北区)

下記は1951年(昭和26年)発行の『山陽年鑑 昭和27年版』に掲載された企業広告。所在地の記載を見てほしい。カッコの中に「大供ロータリー」と書かれている。

山陽年鑑_広告.jpg

戦災復興計画に基づいて大供交差点が整備されたのは1958年(昭和33年)のことだ。他の交差点と同様に大供交差点もロータリー化される「計画」だったが、変更されている。

交差点の整備工事が始まるはるか以前の1951年(昭和26年)の広告で、場所をナビゲートするための手がかりとして「大供ロータリー」と表記されているのは、いったいどういうことだろう。

答えは一つしかない。大供交差点は、「整備される前はロータリー交差点だった」からだ。

前記の「市内6ヶ所の交差点がロータリー化される予定だった」という内容とは、実は矛盾していない。大供交差点だけは、「ロータリーからロータリーへ」整備される予定だったのだ。

もう一つ例を挙げよう。下記は宰府俤さんという方が1955年(昭和30年)に『岡山畜産便り』という業界紙に寄せた文章の一節だ。

「拙宅は、岡山、倉敷間の国道沿いで大供のロータリーを去ること西方約4kmの処にあるが、この間の国道沿線は、1、2年前までは備前平野の一角をなす美田の連続であった。」

やはり「大供のロータリー」と綴っている。

本当にロータリー交差点だったのだろうか。また、いつロータリー交差点になったのだろうか。

ここに、昔の大供交差点の航空写真がある。これは岡山大空襲の直前、1945年(昭和20年)5月に米軍が撮影したものだ。

IMG_0349.jpg
岡山シティミュージアム「第46回 岡山戦災の記録と写真展」展示写真よりトリミング
※クリック(タップ)で拡大できます。

中央島がはっきりと写っている。なんと戦中からすでにロータリーだったのだ。残念ながらロータリー化されたのがいつのことなのかは分からなかった。ただ、日本で最初にロータリー交差点ができたのは1934年(昭和9年)なので(和田倉門ロータリー交差点)、それ以降であることは確かだ。

大供交差点も空襲の被災範囲に入っているが、戦後もそのままロータリー交差点として運用され続けたのだろう。

この新たな発見を踏まえると、「柳川ロータリーの謎」が、以前より少しクリアになってくる。岡山市中心部には終戦前からロータリー交差点が存在していた。戦災復興計画で交差点が整備される前から、岡山市民はロータリーという言葉を使っていた。だから新しく整備され始めた「ロータリー化される予定の」交差点を躊躇なくロータリーと呼んだのだろう。

もちろん、結局はロータリーにならなかったのだから、ロータリーと呼んでいるのはおかしい。しかし以前に比べれば、だいぶ分かり合えそうだ。少なくとも大供交差点を大供ロータリーと呼んでいることについては、いちおう納得できる。

また、大供交差点のそばに「ロータリー」という名前の老舗喫茶店があるのは、ここが実際にロータリー交差点だったからなのだ。

航空写真以外では、大供交差点がロータリーだった頃の写真を見たことがない。1958年(昭和33年)の整備「前」の写真がどこかにあれば、ぜひ見てみたいものだ。

大供交差点_昭和38年.jpg
整備「後」の大供交差点/『岡山市勢要覧 1963年版』


【参考文献】
『岡山市勢要覧 1963年版』(岡山市、1963年)
『山陽年鑑 昭和27年版』(山陽新聞社、1951年)
『岡山畜産便り 昭和30年11月・12月合併号』(岡山県畜産協会、1955年)
岡山シティミュージアム「第46回 岡山戦災の記録と写真展 証言からたどる戦争と空襲」展示写真
「岡山市内ロータリーにおける交通処理について」(1959年、『第5回 日本道路会議論文集』所収/太田龍亀、松原尚武、坂手康人)
「岡山市街地のロータリー交差点に由来する円形状空間の独自性とその活用に関する研究」(土木学会『土木史研究 講演集Vol.25』所収/北村尚子、樋口輝久、馬場俊介、2005年)





posted by pictist at 11:57| 都市鑑賞

2023年07月02日

それは本当に「火の見櫓」か

「火の見櫓」と呼ばれる構造物がある。正式には「警鐘台」と言う。頂部に半鐘が設置されている、あの鉄骨製のタワーだ。警鐘台は「一点モノ」で、さまざまな形状があるので見ごたえがある。

警鐘台は昔から多くの人が採集・鑑賞してきた。考現学の今和次郎も昭和初期にスケッチしているし、路上観察学会ももちろん採集している。名古屋の野外活動研究会も然り。

私の場合は「目に付いたら撮影することがある」といった程度で、それほど熱心に鑑賞してこなかった。警鐘台の歴史についても詳しく調べたことはない。

そんなわけでこれまで警鐘台についてじっくり考えたことがなかったのだが、先日、「警鐘台が活躍していたのは必ずしも火災のときだけではないんだな」と気づいた。

普段から「火の見櫓」と呼んでいるので、なんとなく「火災時のためのもの」というイメージのまま思考が止まっていたが、よく考えると災害は火災だけではない。


【水防を兼ねた警鐘台】

私は岡山市に住んでいる。岡山は昔から水害に悩まされてきたまちだ。近年はダムの造成や護岸の強化などによって出水の頻度は少なくなっているが、かつては被害が多かった。

河川のそばに暮らす住民は、大雨のたびに決壊や越水の心配をしただろう。ということは、河川のそばに立っている警鐘台は、火災だけでなく水防警鐘台としての役割も担っていたのではないだろうか。

実際に水害時に使われた事例があれば知りたいし、また幸いにしてこれまで使われたことがなかったとしても、警鐘台をつくる際に住民が水防を意識していたかどうかを知りたい。

「河川のそばに警鐘台のある町」にお住まいの方で、地元の古老や町内会長さんなどにお話を聞くことができる方がいらっしゃったら、ぜひ聞き取りをしてみてほしい。
※もし可能な方がいたら情報提供していただけるとうれしいです。


【「火の見櫓」ではない警鐘台もある】

岡山市の旭川沿岸、京橋の近くに、登録有形文化財にもなっている大正時代の警鐘台「京橋の火の見櫓」がある。これも通常はみんな「火の見櫓」と言っているが、正式名は「京橋警鐘台」または「内山下(うちさんげ)分団警鐘台」である。

内山下地区連合町内会によると、京橋警鐘台は過去、火災時はもちろん、旭川の増水の際にも住民に危険を知らせていたそうだ。こうした「河川沿いの警鐘台」の活躍事例は、他にもあるのではないだろうか。

なんでもかんでも勝手に「火の見櫓」と呼んでいると、先入観がじゃまをして大事なものを見落としてしまいそうだ(今までの私のように)。

たとえば下記「海吉出村町内会」のページで紹介されている警鐘台は、水防のためだけにつくられたものだ。だから「火の見櫓」ではない。残念ながら現存していないが、「水防を目的としてつくられた警鐘台」が少なくとも一基は存在していたわけで、探せば他にもあるかもしれない。

海吉出村町内会>出村スポット>水防用半鐘杭
鉄道が河川を横切っていた場所なので事例としては特殊だが、警鐘台を考える上で重要な記録だ。

このページで紹介されているような梯子型の木製警鐘台を、岡山では半鐘杭(はんしょうぐい)と呼ぶ。岡山弁で訛って「はんしょうぎぃ」あるいは「はんしょうぐえ」と言う。岡山以外の地域にもこうした梯子型の木製警鐘台はあるのだろうか。また、各地ではなんと呼ばれているのだろうか。

水防警鐘台は「水見櫓」という言い方もあり、岡山県では矢掛町(やかげちょう)の水見櫓が有名だ。これは実際の警鐘台ではなく、やかげ郷土美術館のシンボル兼展望台として昭和後期に建設したものだが、矢掛は小田川という川のそばにある低地集落なので、昔は水見櫓が存在していたらしい。

ともかく、半鐘が設置された塔型・梯子型の構造物すべてを、安易に「火の見櫓」と呼ぶべきではなさそうだ。半鐘杭はそもそも「櫓」ではないし。はっきりしない場合は「警鐘台」と総称したほうがいいだろう。


【日畑の半鐘杭】

下記の写真は岡山県倉敷市日畑にある半鐘杭。足守川(あしもりがわ)という川のそばにある。Googleストリートビューで周辺の様子を確認してみてほしい。推測だが、この半鐘杭の主目的は水防なのではないだろうか。できれば住民の方に取材してみたいが、なかなかその余裕がない。もしなにかご存じの方がいたらご一報ください。

倉敷市日畑の半鐘杭02.jpg

倉敷市日畑の半鐘杭01.jpg

倉敷市日畑の半鐘杭03.jpg


日畑の半鐘杭




【九蟠の半鐘杭】

岡山市東区升田、九蟠(くばん)地区に一本柱の半鐘杭がある。児島湾の防潮堤にある半鐘であり、これはどう考えても「火の見」目的ではないだろう。奧に見えているのは沖新田の用水路「江川」。

IMG_9963.jpg


【西大寺の半鐘杭】

岡山市東区西大寺エリアにある半鐘杭。半鐘はなくなっているが、おそらく警鐘台としてつくられたものだろう。吉井川の支流の干田川(ほしだがわ)沿いに立っているので、これも火災だけでなく水防を意識したものではないかと想像している。

IMG_0207.jpg

西大寺地区にはもう一つ半鐘杭を見つけているのだが、まだ撮影できていない。

また何か分かったら追記します。





posted by pictist at 21:51| 都市鑑賞

2023年06月20日

岡山市のオールド戦後建築

岡山市内に現存する戦後建築を古い順に並べてみました。把握している範囲で。

(1)岡ビル(1951年/昭和26年竣工)

IMG_0503.jpg
詳しくはこちらを→岡ビル(内側から見る岡山)

友人が住んでるのでときどき近況を聞くのですが、以前から計画のあった再開発が、いよいよ迫ってきているようです。


(2)宇野自動車(宇野バス)本社(1953年/昭和28年竣工)

IMG_2924.jpg

IMG_2923.jpg

IMG_2925.jpg

IMG_2927.jpg

IMG_2926.jpg

IMG_2933.jpg


(3)中国銀行小橋支店(1955年/昭和30年竣工)

IMG_0360.jpg

IMG_0359.jpg

ちなみに小橋支店の前にある岡山電気軌道「小橋停留場」は、2016年に制作した「オルタナティブマップ」で鑑賞スポットの一つとして紹介しました。道路の真ん中に描かれた四角いペイントが停留場です。

IMG_9342.jpg


【追記】西日本旅客鉄道岡山支社(旧岡山鉄道管理局総合庁舎、1955年竣工)

IMG_0402.jpg

こちらは竣工当時の写真です。『工事画報 昭和31年版』より。
岡山鉄道管理局総合庁舎.jpg


(4)京山八方閣(1956年/昭和31年竣工)

IMG_3826.jpg
京山八方閣は国内初の回転展望台で、のちに「京山タワー」に改称しました。現在は「京山ソーラーグリーンパーク」という施設になっています。

この回転展望台の回転機構は、岡山電気軌道の路面電車の軌道敷設技術を応用して開発されました。


(5)岡山県庁舎(1957年/昭和32年竣工)

IMG_2252.jpg

IMG_9927.jpg

IMG_2255.jpg

IMG_9936-Pano.jpg

あと丸の内にある旧榊原病院(複合型介護施設「丸の内ヒルズ」)が1954年(昭和29年)竣工なんですが、増改築を繰り返してるので参考記録ということで。

それと、はたっち(団地愛好家)が教えてくれた話では、東区にある金岡市営住宅(木造)が1952年(昭和27年)竣工とのことです。あと北区、下内田町の団地の中の一棟(下内田白鳩の家)が1956年(昭和31年)とのこと。

このランキングに食い込んでくる建物が他にあったら、教えていただけるとありがたいです。

【追記】
ツイッターでお寄せいただいた情報によりますと、岡山朝日高校の大講堂(現在は不使用)が1954年(昭和29年)竣工とのことです。木造建築。
>>https://www.asahi.okayama-c.ed.jp/access/

【追記2】
続・ツイッター情報です。岡山操山高等学校・音楽堂(旧岡山第一女子高等学校・音楽堂)が1948年(昭和23年)竣工とのことです。
>>https://www.sozan.okayama-c.ed.jp/wordpress/about/history/


【あわせて読みたい】
・ビルの鑑賞(岡山市)1
・ビルの鑑賞(岡山市)2




posted by pictist at 17:29| 都市鑑賞

2023年06月19日

新地堰(季節限定)

以前、旭川(岡山市)の新堰・新堰管理橋の鑑賞記事を書きました。2016年に制作した「オルタナティブマップ」でも鑑賞スポットの一つとして紹介しています。

新堰と併せて、もう一つの鑑賞スポットとして紹介したいのが旭川の「新地堰」。ただし夏季、稲作の季節にだけ出現するスポットです。

※画像はすべてクリック(タップ)で拡大できます。

IMG_0376.jpg
旭川の新地堰。東中島の東側を流れる傍流にあります。遠くに少し見えているオレンジ色の橋桁は新京橋。

IMG_0374.jpg
普段は川底に格納されているゲートが上がり、上流側の水位を上げています。

IMG_0377.jpg
魚道。よく見るとサギ(?)がじっと魚を狙ってる。

IMG_0381.jpg
ゴーーッという落水の音が響いていて迫力があります。

新地堰01b.jpg

下はゲートが下がっている時期の写真。上と見比べてみてください。

新地堰01a.jpg

こうした土木技術にグッとくるかどうかは人それぞれだとは思いますが、私は単純に「人が川の水位を上げている」っていうことだけでテンションが上がります。

新地堰02a.jpg

反対側から見たところ。これも下のゲートが下がっている時期の写真と見比べてみてください。

新地堰02b.jpg
正面の奧に柵付きの取入れ口があるのが分かるでしょうか。水位を上げてあの取入れ口から農業用水を導くわけです。

新地堰03a.jpg

これも

新地堰03b.jpg

IMG_0371.jpg
ここから取り込まれた水(新堰用水)が旭東エリア・倉安川以南の水田を潤します。新堰から新地堰へ連携する大がかりな頭首工です。

最後に今年の新堰の様子をどうぞ。

IMG_0391.jpg

【参考文献】
国土交通省中国地方整備局「旭川水系河川整備計画」

【あわせて読みたい】
旭川の新堰管理橋





posted by pictist at 00:05| 都市鑑賞