普通に歩いたら10分もかからない距離なんですが、終わってみると2時間以上経ってました。
>>都市鑑賞者・内海慶一さんと行く町歩き〜京橋から旭川沿いを鑑賞ウォーク編〜
このシリーズは毎回、ネット上には載っていない情報を1つ以上、紹介することを心がけています。今回の記事で言うと、相生橋が1951年(昭和26年)に継ぎ足しされた話などは検索してもまったく出てこないと思います。相生橋は1937年(昭和12年)の竣工当初、今より65メートルほど短かったのです。
以下にサブテキストとして、あまり知られていない相生橋と龍見橋の歴史についてご紹介します。また、消滅した中洲「荒手」についてもご説明します。
「岡山市政だより 55」(1951年9月)より。相生橋の継ぎ足し工事完成を紹介する記事。
この写真は東詰から西を向いたところ。いちばん右に写っている橋脚が、継ぎ足し時に建造されたものです(※1)。
この新橋脚にだけ謎の四角い窪みが並んでるんですが、おそらく水位標がわりの目安だと思います。一つの四角が20cmなので、3つの長さが1メートル。1メートルごとにラインをずらして分かりやすくしてるようです。
ちなみに横にウィングを広げて桁を支えているコンクリートは、1985年(昭和60年)に歩道を増築した際のもの。現在の相生橋は、言わば「つぎはぎの橋」なんです。
こちらは川の中に立つ古いほうの橋脚。向こうに新堰が見えています。
左が東詰
右が西詰
観光ネットの記事でも言及していますが、昔は相生橋の東の続きに龍見橋という橋がありました。
内田百閧フ随筆「荒手」にはこのように書かれています。
《から川の向うが荒手の藪である。後になつて荒手の藪の真中から向う岸へ相生橋が架かつたが、相生橋の外にもう一つ荒手の東側から古京の西裏へ、そのから川を跨がつて架かつた龍見橋がある。龍見橋はいつ頃出来たか思ひ出せないけれど、あやふやな記憶の中の順序では相生橋よりも前からあつたのではないかと云ふ気がする。》
荒手というのは現在はもうなくなっている土地で、荒手茶寮(後述)がもともと営業していた場所です。古京(ふるぎょう/旭川の東)から荒手へ龍見橋が架かり、荒手から西へ相生橋が架かっていたわけです。「から川」というのは普段は水が流れていない川。
初代の相生橋は1904年(明治37年)に竣工しました。龍見橋の竣工年は分かっていませんが、百閧ェ《私の子供の時の記憶が出来てから後に架かった》と書いているので、明治時代中期を過ぎてからだと思います。
この画像は『岡山県鳥瞰図』(1930年/昭和5年)の一部。名前は書かれてませんが、相生橋の続き(右)にもう一つ橋が架かっているのが見えます。これが龍見橋です。
1906年(明治39年)の「岡山市明細地図」より。百閧ェ旧制中学校に通っていた頃の岡山です。
江戸時代、荒手には三猿斎(さんえんさい)の号で知られる岡山藩の家老、伊木忠澄の下屋敷(荒手屋敷)がありました。維新後、1884年(明治17年)より旧藩主である池田家の所有となり、その後、坂本金弥(実業家・政治家)の所有となります。
荒手屋敷には広い庭園があり、「相生の松」と呼ばれる立派なクロマツの木がありました。相生橋の名はこの松に因んだものと言われています。
百閧フ記憶によると、荒手屋敷は一時的に六高(旧制第六高等学校)の寄宿舎になっていたこともあるそうです。その後、大正から昭和初期には荒手にテニスコートがあった時期もあります。
1933年(昭和8年)に荒手屋敷は「荒手茶寮」という料亭になりますが、翌1934年(昭和9年)の室戸台風で被害を受け、営業停止を余儀なくされたようです。
そして1938年(昭和13年)、荒手屋敷は旭川改修工事に伴い取り壊されました。ただ、屋敷の一部である万竹堂や菊の間、扇の間、建具や茶道具、庭園の石灯籠などは売りに出されたため、各地に散逸しました。万竹堂は京都に移築されたそうです。また、扇の間は大原孫三郎が購入し、これも京都の別邸に移築したそうです。
在りし日の荒手屋敷・万竹堂(1938年/昭和13年撮影) 『岡山市史 政治編』より
荒手屋敷にあった長屋門は現在、東京都世田谷区に残されており、世田谷区指定有形文化財になっています。
>>世田谷区|武家屋敷門
料亭「荒手茶寮」は現在、岡山後楽園のそばで営業しています。この建物は戦後に再建されたものですが、1938年(昭和13年)に建設して1945年(昭和20年)の戦災でなくなった「戦前の荒手茶寮」の建物が、はたして荒手屋敷から移築したものだったのかどうかは分かりません。
移築したのであれば上記の京都の例のように当時の記録が残っているはずですが、今のところ見つかりません。また、1940年(昭和15年)の資料には、荒手茶寮が後楽園に「移転新築」したものであると書かれています。
岡山県立記録資料館所蔵/資料番号E00006-000574
大正時代の相生橋。この頃は木橋です。向こう岸が荒手で、写真には写っていませんが、その向こうに龍見橋があったはずです。
手前に相生橋水位観測所がありますね。
1937年(昭和12年)に現在の相生橋(ゲルバー式鋼板桁橋)が完成します。
ここで相生橋の歴史を整理しましょう。木橋時代の相生橋は何回か流失して再建されています。
【相生橋と龍見橋の歩み】
※複数の資料から情報を得て一つにまとめたものです
不明年(明治中期以降)/龍見橋(初代)竣工
1904年(明治37年)4月/相生橋(初代)竣工
1913年(大正2年)3月/龍見橋を架替竣工(2代目)
1914年(大正3年)4月/相生橋を架替竣工(2代目)
1928(昭和3年)6月/相生橋が豪雨により流失
不明年/相生橋(3代目)竣工
1934年(昭和9年)9月/室戸台風により相生橋が流失、工兵隊が仮設橋(4代目)を架設
1936年(昭和11年)7月/相生橋を新設起工(5代目)
※これが現在の相生橋
1937年(昭和12年)7月/相生橋が豪雨により流失
※5代目相生橋(鉄筋コンクリート橋)がこのとき建設中なので、流失したのは4代目の仮橋。
1937年(昭和12年)11月/5代目相生橋(現在の相生橋)竣工、渡り初め式
※現在の5代目相生橋竣工後、旭川左岸の川幅の拡張工事がおこなわれた際、相生橋の延伸が検討されたが、資材の制約のため木橋による継ぎ足しを施すにとどまった。つまりこの時点以降、相生橋は鉄筋コンクリート橋と木橋(旧龍見橋の部分を含む)の接合でできていた。
1951年(昭和26年)8月/相生橋の継ぎ足し工事竣工
※木橋の部分を撤去し、鉄筋コンクリート橋を延伸した(約65m)
1985年(昭和60年)/歩道(側道橋)を増築
※銘板によると北側は3月、南側12月に竣工
相生橋の竣工当時の写真(1937年/昭和12年)。当時は親柱の上に照明があったことが分かります。
現在の様子。親柱は岡山産の花崗岩、万成石(まんなりいし)でできています。
1985年(昭和60年)に歩道が増築されました。
歩道と車道の間には、おそらく竣工時のものであろう万成石の縁石が残っています。
これは東詰の桁なんですが、塗り直しの時期が異なるため新旧がはっきり分かります。継ぎ足された新しいほう(右側)が古く見えているのが面白い。
ただ不思議なのは、前述のように橋桁のサイド面、外側は増築された歩道なので、どれも同時期につくられたはずなんですよね。奧にあるもともとの橋桁の竣工時期に塗装のタイミングを合わせてるんでしょうか。
これは東詰の親柱。1985年(昭和60年)の歩道改築後に埋められたプレートに、なぜか「昭和13年竣工」と書かれています。現在の相生橋は昭和12年11月に竣工して渡り初め式が行われているので、13年と書くのは無理があると思うのですが。謎です。
相生橋は延伸部や歩道が段階的に追加されてできた「つぎはぎの橋」です。竣工当時の姿がそのまま残っていないことをマイナスに捉える見方もあるかもしれませんが、私はこの「歴史の積層」こそが面白いと思っています。
それは、都市の姿そのものです。
ちなみに相生橋の東詰にある岡山県庁分庁舎(旧三光荘)の1階には内田百閭Rーナーがあるので、相生橋まで行ったらついでにご覧になってみてください。江國滋がつくった百閭<c梶[岡山マップも展示されています。
あと旧三光荘の外階段には、どう思っていいのか分からないコンクリートの梁があるので、これもぜひ見て帰ってください。
【参考文献】
「岡山市明細地図」(1906年)
『山陽年鑑別冊 岡山縣七十年史』(山陽新報社、1936年)
『汎岡山 第十二巻 第十二号』(汎岡山社、1937年)
『相生橋掛替写真』(小西昭光、1937年)
『昭和十二年七月十五日、十六日 豪雨洪水調査報告』(岡山県測候所、1937年)
『岡山市史 第六』(1938年)
『庭園 第二十巻 第十二号』(日本庭園協会、1938年)
『合同年鑑別冊 吉備二千六百年史』(合同新聞社、1939年)
『岡山市制だより 55』(1951年)
『岡山市史 政治編』(1964年)
『たらちをの記』(内田百閨^六興出版、1981年)
『大原孫三郎伝』(大原孫三郎伝刊行会、1983年)
『岡山市会史 第3巻』(岡山市議会、1987年)
『岡山市百年史』(1991年)
文中(※1)は岡山市都市整備局道路部道路港湾管理課の回答による
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