警鐘台は昔から多くの人が採集・鑑賞してきた。考現学の今和次郎も昭和初期にスケッチしているし、路上観察学会ももちろん採集している。名古屋の野外活動研究会も然り。
私の場合は「目に付いたら撮影することがある」といった程度で、それほど熱心に鑑賞してこなかった。警鐘台の歴史についても詳しく調べたことはない。
そんなわけでこれまで警鐘台についてじっくり考えたことがなかったのだが、先日、「警鐘台が活躍していたのは必ずしも火災のときだけではないんだな」と気づいた。
普段から「火の見櫓」と呼んでいるので、なんとなく「火災時のためのもの」というイメージのまま思考が止まっていたが、よく考えると災害は火災だけではない。
【水防を兼ねた警鐘台】
私は岡山市に住んでいる。岡山は昔から水害に悩まされてきたまちだ。近年はダムの造成や護岸の強化などによって出水の頻度は少なくなっているが、かつては被害が多かった。
河川のそばに暮らす住民は、大雨のたびに決壊や越水の心配をしただろう。ということは、河川のそばに立っている警鐘台は、火災だけでなく水防警鐘台としての役割も担っていたのではないだろうか。
実際に水害時に使われた事例があれば知りたいし、また幸いにしてこれまで使われたことがなかったとしても、警鐘台をつくる際に住民が水防を意識していたかどうかを知りたい。
「河川のそばに警鐘台のある町」にお住まいの方で、地元の古老や町内会長さんなどにお話を聞くことができる方がいらっしゃったら、ぜひ聞き取りをしてみてほしい。
※もし可能な方がいたら情報提供していただけるとうれしいです。
【「火の見櫓」ではない警鐘台もある】
岡山市の旭川沿岸、京橋の近くに、登録有形文化財にもなっている大正時代の警鐘台「京橋の火の見櫓」がある。これも通常はみんな「火の見櫓」と言っているが、正式名は「京橋警鐘台」または「内山下(うちさんげ)分団警鐘台」である。
内山下地区連合町内会によると、京橋警鐘台は過去、火災時はもちろん、旭川の増水の際にも住民に危険を知らせていたそうだ。こうした「河川沿いの警鐘台」の活躍事例は、他にもあるのではないだろうか。
なんでもかんでも勝手に「火の見櫓」と呼んでいると、先入観がじゃまをして大事なものを見落としてしまいそうだ(今までの私のように)。
たとえば下記「海吉出村町内会」のページで紹介されている警鐘台は、水防のためだけにつくられたものだ。だから「火の見櫓」ではない。残念ながら現存していないが、「水防を目的としてつくられた警鐘台」が少なくとも一基は存在していたわけで、探せば他にもあるかもしれない。
海吉出村町内会>出村スポット>水防用半鐘杭
鉄道が河川を横切っていた場所なので事例としては特殊だが、警鐘台を考える上で重要な記録だ。
このページで紹介されているような梯子型の木製警鐘台を、岡山では半鐘杭(はんしょうぐい)と呼ぶ。岡山弁で訛って「はんしょうぎぃ」あるいは「はんしょうぐえ」と言う。岡山以外の地域にもこうした梯子型の木製警鐘台はあるのだろうか。また、各地ではなんと呼ばれているのだろうか。
水防警鐘台は「水見櫓」という言い方もあり、岡山県では矢掛町(やかげちょう)の水見櫓が有名だ。これは実際の警鐘台ではなく、やかげ郷土美術館のシンボル兼展望台として昭和後期に建設したものだが、矢掛は小田川という川のそばにある低地集落なので、昔は水見櫓が存在していたらしい。
ともかく、半鐘が設置された塔型・梯子型の構造物すべてを、安易に「火の見櫓」と呼ぶべきではなさそうだ。半鐘杭はそもそも「櫓」ではないし。はっきりしない場合は「警鐘台」と総称したほうがいいだろう。
【日畑の半鐘杭】
下記の写真は岡山県倉敷市日畑にある半鐘杭。足守川(あしもりがわ)という川のそばにある。Googleストリートビューで周辺の様子を確認してみてほしい。推測だが、この半鐘杭の主目的は水防なのではないだろうか。できれば住民の方に取材してみたいが、なかなかその余裕がない。もしなにかご存じの方がいたらご一報ください。



日畑の半鐘杭
【九蟠の半鐘杭】
岡山市東区升田、九蟠(くばん)地区に一本柱の半鐘杭がある。児島湾の防潮堤にある半鐘であり、これはどう考えても「火の見」目的ではないだろう。奧に見えているのは沖新田の用水路「江川」。

【西大寺の半鐘杭】
岡山市東区西大寺エリアにある半鐘杭。半鐘はなくなっているが、おそらく警鐘台としてつくられたものだろう。吉井川の支流の干田川(ほしだがわ)沿いに立っているので、これも火災だけでなく水防を意識したものではないかと想像している。

西大寺地区にはもう一つ半鐘杭を見つけているのだが、まだ撮影できていない。
また何か分かったら追記します。