2022年02月05日

400年の歩道橋

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岡山駅の近くにある岩田町(いわたちょう)歩道橋。かっこいい。昔から好きなスポットだ。

この歩道橋は道路をまたぐためのものではない。地下道の入口スロープをまたぐために設置されたものだ。しかも新幹線の高架下(中層梁の上)に架かっている。だから他ではあまり見ることのない、独特な景が生まれている。

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地下道の名前は万町(よろずちょう)地下道。自転車・歩行者用の地下道だ。万町というのは旧町名で、現在は岩田町〜奉還町になっている。

岩田町歩道橋は不思議な歩道橋である。この歩道橋を使う人はまったくいない。脇の道を通行すれば済むからだ。そしてスロープをまたぐため、けっこう長い。

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高架下に架かる岩田町歩道橋

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北側。歩道橋の左に歩行者用の地下道入口がある。

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歩道橋を登って振り向いたところ。右に歩行者用の地下道入口がある。

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けっこう長い。

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南側。通行者が右へ抜けられるよう、歩道橋の階段が狭まっている。

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狭まっていく。

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先ほどの場所を右へ抜けたところ。奧に自転車用の地下道入口スロープがある。



あえてアクロバティックな言い方をするなら、この不思議ですてきな構造物ビューを生み出したのは、戦国大名の宇喜多秀家である。

どういうことか。

宇喜多秀家(1572〜1655)は「岡山」をつくった人物だ。父親の宇喜多直家が当地の領主だった頃は「石山」という丘に城があった。その後、家督を継いだ秀家が「岡山」という丘に城を築き、城下町を整備したことで、一帯が「岡山」と呼ばれることになる。秀家は、現在に続く岡山市中心部のまちの基盤をつくった。「岡山」という都市の創生者と言えるだろう。

秀家がおこなった都市改造の一つに、山陽道(のちの西国街道)の付け替えがある。山陽道はもともと、岡山城のはるか北を通っていた。現在の国府市場〜三野〜津島笹が瀬を通るルートだ。

それを直家が変更し、岡山城の南側を通るルートに付け替えた。さらにそれを秀家が、城下町を縦断するルートに付け替えたのである。この道が西国街道となり、以降この地の主要幹線道路になった。

下の図は「岡山城下町と現在の市街地重ね図」(岡山シティミュージアム制作)をトリミングしたもの。オレンジ色のラインが山陽道(西国街道)だ。左側、東西方向に岩田町と万町を通っているのが分かる。この道が300年後、鉄道と交差する。

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「都心創生まちづくり構想/資料編」(岡山市政策局事業政策課、2014年)より



下の図は1875年(明治8年)に出版された「官許岡山県市中略図」の一部(左が北)。岩田丁(岩田町)と萬丁(万町)を貫いて西国街道が通っている。「備中板倉道」と書かれているのは、この道の先に宿場町「板倉宿」があるためだ。

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岡山デジタル大百科>郷土情報ネットワーク>「官許岡山県市中略図」より



1891年(明治24年)、山陽鉄道(のちの山陽本線)が岡山へ延伸し、岡山駅が開業する。このとき、線路が西国街道と交わることになった。そこで交点に設けられた踏切が、1960年(昭和35年)まで存在していた万町踏切である。

下の図は1900年(明治33年)に発行された「大改正新市区岡山市明細地図」の一部(左が北)。線路と幹線道路(赤いライン)が交わっているのが分かる。万町踏切の名前の通り、交点は万町エリアにある。

大改正新市区岡山市明細地図_明治33年(部分).jpg
岡山デジタル大百科>郷土情報ネットワーク>「大改正新市区岡山市明細地図」より

下の図は1934年(昭和9年)の様子。赤いラインが万町踏切を通っているが、これはバス路線を表している。万町踏切は、鉄道で分断されたまちの中心部の東側と西側を結ぶ、重要なポイントだった。

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岡山デジタル大百科>郷土情報ネットワーク>「最新岡山市街地図」より



1927年(昭和2年)には万町踏切の脇に歩行者用の陸橋が架けられた。モータリゼーション時代のはるか前になぜ人道橋がつくられたのかと言うと、牛馬が通行していたからだ。当時、踏切を待っていた馬が汽車の音に驚いて暴れだし、警手をはね飛ばすという事故があった。それをきっかけに陸橋がつくられることになった(しかし陸橋を使う人は少なかったようだ)。

1953年(昭和28年)、万町踏切の北、約200メートルの場所に万町跨線橋が完成する。自動車は万町跨線橋を通行することとなり、万町踏切は歩行者・自転車専用踏切になった(万町跨線橋の完成と同時に万町踏切は廃止される予定だったが、撤去反対運動が起こり残されることになった)。

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1953年(昭和28年)、万町踏切撤去反対署名運動の様子。左側に踏切がある。歩行者用の陸橋も写っている。
岡山県立記録資料館所蔵/ファイル番号:00022-D004

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『岡山・玉野の昭和』より、1959年(昭和34年)に撮影された万町跨線橋。当時は2車線だった(現在は8車線)。

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『岡山県民の昭和史』より、1955年(昭和30年)の万町踏切の様子。

存置運動が実り万町踏切はいったんは存続した。ただ、この踏切は駅構内にあるため遮断回数が多く、「あかずの踏切」として有名で、以前より交通の阻害要因となっていた。

そこで県・市・鉄道局が「万町踏切代案研究委員会」を結成し、踏切の代案を検討する。その結果、計画されたのが万町地下道である。1960年(昭和35年)1月19日、万町踏切の廃止と同時に万町地下道が開通。全国でも珍しい円形ループ式の地下道が岡山市に誕生した。

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万町地下道の奉還町側の入口。右に自転車用のスロープ、左に歩行者用の階段がある。

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前述した万町跨線橋の建設によってモータリゼーション社会にいちはやく対応、さらに万町地下道の建設で「あかずの踏切」問題も解決した。めでたしめでたし……となるところだったが、まだ終わらない。後年、この場所に新幹線が通ることになるのだ。

万町地下道の竣工から12年後、山陽新幹線「新大阪〜岡山」間が開通する。高架が地下道の入口をまたぐことになった。そこで問題になったのが橋脚である。

橋脚を建てるとそれまで歩道だったスペースがふさがり、歩行者が車道側にはみ出すことになる。危険だ。地下道がなければこの問題は起こらなかった。

そこで地下道の入口をまたぐ歩道橋が架けられることになった。工事は当然、新幹線の高架建設と一体的におこなわれた。この場所の高架「岡山駅東高架橋」の竣工は、『山陽新幹線新大阪・岡山間建設工事誌』によると1970年(昭和45年)6月。そして岩田町歩道橋の竣工年は1970年(昭和45年)8月。同時期に完成している。

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こうしてできあがったのが冒頭のビューである。

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歩行者も脇の自転車道を通行しており、歩道橋は使われていない。

ざっとまとめると、こうだ。

16世紀末/街道の付け替えがおこなわれ、岩田町〜万町を通ることになる。

1891年(明治24年)/山陽鉄道「岡山駅」開業。線路と街道が交わり、万町踏切ができる。

1953年(昭和28年)/万町跨線橋が完成し、万町踏切は歩行者・自転車専用になる(廃止される予定だったが存続)。

1960年(昭和35年)/万町踏切が廃止され、同じ場所に万町地下道が開通する。

1970年(昭和45年)/新幹線の高架「岡山駅東高架橋」と岩田町歩道橋が竣工する。

400年近く前からいくつもの事情が積み重なり、その結果、この場所に不思議ですてきなビューが生まれた。

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岩田町歩道橋の上から東を眺める。正面の道が西国街道だ。

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岩田町歩道橋の上から西を眺める。西国街道が線路で途切れている。かつてはここに万町踏切があり、上掲の道につながっていた。

都市はさまざまな事情の集積でできあがっている。つぶさに見ていけばどこでもそうなのだが、ときどき、それが面白いかたちで表出している場所がある。

【参考文献】
・「都心創生まちづくり構想/資料編」(岡山市政策局事業政策課、2014年)
・ウェブサイト「岡山城」(岡山シティミュージアム)
・ウェブサイト「写真に残された昭和の風景」
・『山陽新幹線新大阪・岡山間建設工事誌』(大阪新幹線工事局、1972年)
・山陽新聞コラム「おかやま今昔33」(1960年1月31日)
・『岡山市史 産業経済編』(岡山市役所、1966年)
・『岡山市百年史』下巻(岡山市、1991年)
・『岡山・玉野の昭和』(樹林舎、2019年)
・『岡山県民の昭和史』(山陽新聞社、1986年)

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posted by pictist at 11:22| 都市鑑賞