2017年12月25日

ニセモノ考 - 『生活考察』Vol.3より

雑誌『生活考察』Vol.3(2012年4月発行)に寄稿した「ニセモノ考」という文章を以下に転載します。昔から「ホンモノらしさ」や「ニセモノらしさ」に興味があり、いまだに考え続けています。


ニセモノ考/内海慶一

 高校生の頃、萩原朔太郎を愛読していた。詩はもちろんだが、短編小説「猫町」が特に好きだった。好きが昂じて友人たちと「猫町」を題材にした映像作品をつくったほどだ。つたない出来だったが、それほどまでに当時の私にとって「猫町」は魅力的な作品だった。
 「猫町」の内容を一言で言うと、「見慣れた景色が未知の景色に見える」という話だ。知らない町に迷い込んだ「私」は、しばらくしてそこが自分の家の近所であることに気づく。

 私は夢を見ているような気がした。それが現実の町ではなくって、幻燈の幕に映った、影絵の町のように思われた。だがその瞬間に、私の記憶と常識が回復した。気が付いて見れば、それは私のよく知っている、近所の詰らない、ありふれた郊外の町なのである。(中略)この魔法のような不思議の変化は、単に私が道に迷って、方位を錯覚したことにだけ原因している。いつも町の南はずれにあるポストが、反対の入口である北に見えた。いつもは左側にある街路の町家が、逆に右側の方へ移ってしまった。そしてただこの変化が、すべての町を珍しく新しい物に見せたのだった。(※1)

 朔太郎はこれを「景色の裏側」と呼んだ。私はこの、日常が突然別のものに見えてしまうという感覚に強く惹かれたのだった。現実世界への信頼がぐらついたときに感じるであろう、恐怖と陶酔がないまぜになったような、甘美な眩暈。

 ジャック・フィニィの古典SF『盗まれた街』も同種の好奇心を刺激してくれた。ある町の住人たちが、次々に「私の家族はニセモノだ」と言い始めるのだ。自分がこの世界でいちばんよく知っているはずの家族をニセモノだと感じるというのは、どんな気持ちなのだろう。(※2)

 SFの中の話だけでなく、このような「既知の人物をニセモノだと感じる」という病気は実際にある。カプグラ症候群と呼ばれる精神疾患で、一九二三年にフランスの精神科医カプグラによって報告されたことからこの名が付いた。カプグラ症患者は、家族や知人を「瓜二つの替え玉と入れ替わっている」と確信する。

 人間以外のものが対象となるカプグラ症候群もある。精神科医の西丸四方の著作には、町全体がニセモノだと主張する患者の話が出てくる。長野県松本市の病院に入院している患者が、ここは本当の松本市ではなく、新潟県のどこかに松本市そっくりにつくられた町だと言ったそうだ。(※3)

 このような猫町的眩暈への興味、そしてニセモノへの興味が、だんだんと私の中で膨らんでいった。その興味は今でも続いている。ニセモノ、疑似、フェイクと言われるもの、あるいはリアリティについて考えさせるものが、どうしても気にかかるのだ。



 スーパーで「手づくり風おにぎり」というものを見たことがある。同じパターンで「手打ち風うどん」や「手ごね風ハンバーグ」などもある。
 「風」はいろんなジャンルで利用されている。「個室風」を謳う居酒屋に入ったことがある人は多いだろう。テーブルとテーブルの間に薄い幕が吊り下げてあるのだ。個室風。なんとなく納得してしまうところが「風」の凄さである。
 特に印象深かったのは「セレブ風」だ。通販広告で「お求めやすい価格のセレブ風ジャケット」という商品を見たときはしばらく考えこんだ。(※4)

 手づくり風は手づくりではなく、個室風は個室ではない。言い換えれば「風」はニセモノだと言える。もちろん、これらは何かを「偽」っているわけではない。偽物という言葉の原義である「似せもの」としてのニセモノ。そう思える。

 テレビを見ていると、たまに「有名な曲によく似た曲」が流れてくることはないだろうか。ロッキーのテーマっぽい曲や、007のテーマっぽい曲などだ。おそらく著作権か予算の関係でその曲を使うことができず、それっぽい曲をつくってなんとかした結果なのだろう。あれも音楽版の「風」だな、と耳にするたびに思っている。

 私たちはニセモノに囲まれて生きている。例えば造花、擬木。すっかり生活に溶けこんでいるので意識することは少ないが、ちょっと注意して見れば、本物ではない花や木がいかに身のまわりに溢れているかに気づくだろう。

 最近つくられた公園のフェンスや門柱、車止めなどが木製に見えたら、それはほぼ擬木である。一昔前のプラスチック擬木・コンクリート擬木とは違い、最新のウレタン擬木はよく近づいて見ないとニセモノとは分からない。擬木業界では「本物と間違える」ことを売りにしており、それを「リアル擬木」と呼んでいる業者もある。
 リアル擬木。一瞬聞き返したくなる言葉だ。

 また、一見すると本物と区別がつかないような「人工観葉植物」も普及している。飲食店やオフィス、ホテルなどに置かれている観葉植物は人工観葉植物であることが多い。毎日水をやる手間が省けるし、枯れたり虫が発生したりする心配もないからだ。人工と言っても「幹は本物の木で葉っぱがつくりもの」というものや、「本物の樹木に樹脂を注入して固定したもの」もある。こうなってくるとニセモノの一言では片付けられない。(※5)

 ニセモノとは一体なんだろうか。
 私たちはよく「本物かニセモノか」というように二元論的な言い方をするが、現実はそう単純ではないようだ。
 例えばユーズド加工ジーンズはどうだろう。新品のジーンズに加工を施して、何年も穿き古したジーンズと同じ姿にするのだ。以前、ユーズド加工工場を取材したことがある。職人がジーンズ一本一本を研磨機で削り、ブラスターで砂を吹き付け、バーナーで焼き、器用に「ユーズド感」をつくり出していた。また、ひっかき傷や破れ目などのダメージを入れる場合もある。ユーズド加工ジーンズはニセモノだろうか。

 あるいは人工ダイヤモンドはどうだろう。炭素に高圧力をかけてつくる人工ダイヤの組成は、天然ダイヤと変わらない。もちろん美しさも変わらない。コストや流通の問題で普及していないだけで、物質としてはまったく同じものだ。人工ダイヤはニセモノだろうか。



 「本物かニセモノか」という問いは、やがて「本物と感じるか、ニセモノと感じるか」という認知の問題へ移行する。
 以前、オランダに留学している知人がツイッターでこんなことを書いていた。
 「ヨーロッパの古い町並みを歩いていると、ディズニーランドに来ているような感覚に陥り、すべてが張りぼてに見える瞬間がある」
 知覚の反転現象とでも言おうか。ディズニーランドに限らず、外国の町並みを再現したテーマパークやレジャー施設は日本に数多くある。私たちは「疑似異国」に子供の頃から慣れ親しんでいる。そのため、実際の外国の町並みがつくりもののように思えてしまうというわけだ。(※6)

 こんな話もある。月周回衛星「かぐや」が送ってきた月面の鮮明なハイビジョン映像を見て、「CGみたいでリアルじゃない」という感想を抱いた人が少なからずいたそうだ。今まで繰り返し見てきた、アポロが月面着陸したときの粗い映像のほうにこそリアリティを感じる。これも反転現象だろう。(※7)

 日本全国に自由の女神像がある。誰でも一度は見たことがあるはずだ。パチンコ店やラブホテルなどに設置されているレプリカである。有名なのはお台場の自由の女神像で、観光客の撮影スポットにもなっている。お台場のものはフランス政府公認の「正式なレプリカ」だそうだが、ここで問題にしたいのは公認なのか非公認なのかということではない。この世界に自由の女神のレプリカ像が溢れているという事実だ。

 私はニューヨークの自由の女神像をこの目で見たことはないが、あれを実際に見たときに人は何を思うのだろう。どう感じるのだろう。前述のような反転現象が起こっても不思議ではない気がする。

 視覚以外で言えば、金木犀の香りを芳香剤のように感じるというのも反転現象だろう。ただしそう感じるのはある年齢以上の人だけだそうだが(最近では芳香剤に金木犀の香りが使われていないため)。
 昔の芳香剤はバリエーションに乏しく金木犀の香りが印象に残りやすかったことも原因の一つかもしれない。今売られている芳香剤の香りは多種多様である。ざっと調べただけでもラズベリー、ピーチ、グレープフルーツ、アップルシナモン、オレンジブロッサムなど様々な名前が見られる。中には「ブラジリアンマンゴーフラワーの香り」などというものもある。どんな香りか想像しにくい。

 これまでに見た中でいちばん凄いと思ったのは「古代ローマ調エジプトジャスミンの香り」だ。古代ローマ調エジプトジャスミンを嗅いだことのある人はいるのだろうか。
 こうなるともはや本物と比較されることは永久にない。ニセモノだけがそこに存在している。本物と比較されないニセモノは、ニセモノだろうか。



 赤瀬川原平の『新・正体不明』に「本物そっくりの本物」という言葉が出てくる。強い陽射しに照らされた路地の一角が、まるで撮影セットのように見えたという話だった。本物そっくりの本物。それは世界(外側)ではなく、世界を見る自分の中(内側)に存在する。

 私は普段から町を歩いて気になったものを写真に収めている。本誌前号『生活考察Vol.2』で紹介した「シュロ景」もそうだ。シュロの姿に人々は「南国っぽさ」を感じる。しかしその南国っぽさは「イメージの中の南国」の投影である。在来種であるシュロに、日本人はいつの頃からか南国への憧憬を託すようになった(それも今では薄れているが)。私がシュロ景に惹かれるのは、それが一種の見立てになっており、本物の風景ともニセモノの風景とも言えない独特の位置にあるからだ。

 なぜ私はありふれた景色を見ようとするのか。なぜそれを写真に撮ろうとするのか。理由はいろいろあるが、根本のところには、十代の頃から続いている猫町的眩暈への憧れがある。「景色の裏側」を見てみたいという願望だ。
 この世界に確信を持って「本物」だと言えるものはあるのだろうか。私たちは既知のものを既知のものだと言い切れるのだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、今日も町を歩いている。


※1 萩原朔太郎『猫町 他十七篇』(岩波書店、一九九五年)

※2 フィリップ・K・ディックの短編『父さんもどき』のプロットも『盗まれた街』に近い。ディックは生涯にわたって本物とニセモノの問題や現実崩壊感覚を追求し続けた。ニセモノを語る上で重要な作家である。

※3 西丸四方『彷徨記―狂気を担って』(批評社、一九九一年)

※4 友人が以前勤めていた会社の社食に「韓国風ビビンバ」というメニューがあったそうだ。これはかなり上級者向けの「風」と言えるだろう。

※5 かつて商店街などに飾られていたプラスチック製の造花(ホンコンフラワー)などは、今見るとそのあからさまな「つくりもの感」にむしろイノセンスを感じる。

※6 知人が「淡路島にあるイングランドの丘というテーマパークに行ったら、なぜかコアラがいた」と言っていた。

※7 菊池誠『科学と神秘のあいだ』(筑摩書房、二〇一〇年)


「シュロ景」
初出『生活考察』Vol.3(2012年4月発行)

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posted by pictist at 21:50| 執筆