2023年10月27日

岡山大学に残る戦争遺跡

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岡山大学津島キャンパスのある場所は、かつて旧日本陸軍の駐屯地でした。軍の施設だった建物のいくつかは現在も大学で使用されており、またキャンパス内には様々な戦争遺跡・遺構が残っています。

岡山への陸軍第17師団の設置が決まったのは1907年 (明治40年)。日露戦争の終結から2年後のことです。日本は帝国主義列強の一員として富国強兵を推し進めていました。

1907年(明治40年)8月より整地工事が始まり、翌1908年 (明治41年)11月に全部隊の入営が完了します。陸軍第17師団司令部を筆頭に、歩兵・騎兵・工兵・野砲兵・山砲兵・輜重兵の各部隊と兵器部が駐屯しました。

その後、1925年(大正14年)に第17師団が廃止され、岡山駐屯地は陸軍第33旅団司令部、陸軍岡山連隊区司令部、陸軍歩兵第10連隊、陸軍工兵第10大隊 (のち連隊)と陸軍兵器本廠岡山出張所が使用することになります。

敗戦後は進駐軍が接収、返還後の1949年(昭和24年)に岡山大学が同地に設置されました。陸軍岡山駐屯地は空襲被害を受けなかったので、開学当初は約250棟もの建物が残っていたと言います。それら旧兵舎などが教室・研究室に転用されました。そのほとんどはこの数十年の間に取り壊されました。

現在わずかに残る陸軍施設の遺構を、以下に掲載します。2023年の春頃に撮影したものです。

また、岡山大学文明動態学研究所による調査により、いくつかの建物においてこれまで伝えられてきた竣工年が間違っていたことが判明していますので、併せてお伝えします。

※本記事では師団・連隊番号はアラビア数字で表記します。
※旧施設名は資料によって揺らぎがありますが(時代によって駐屯部隊や使用目的が異なる)、基本的には『岡山大学埋蔵文化財調査研究センター紀要2005』(2007年)と『岡山県の近代化遺産』(2005年)を参照しています。終戦時の名称を採用しています。


【岡山大学情報展示室】
陸軍岡山連隊区司令部衛兵所(陸軍第17師団司令部衛兵所)

1908年(明治41年)竣工/登録有形文化財
※従来は1911年(明治44年)竣工と伝えられてきたが、岡山大学文明動態学研究所の調査により間違っていたことが判明した。
※2023年10月に館内をリニューアルしたそうです。私はリニューアル前しか見てませんが、かつてキャンパス内にあった現存しない建物の写真なども展示されています。
〈開室時間〉月〜金 9:00〜15:00、土・日・祝 10:00〜15:00

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外壁はドイツ下見板張

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寄棟の瓦葺き

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出窓の持ち送り

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軒裏換気孔


【岡山大学文学部考古学資料室】
陸軍工兵第10連隊食堂並びに浴場

1908年(明治41年)竣工
※従来は1911年(明治44年)竣工と伝えられてきたが、岡山大学文明動態学研究所の調査により間違っていたことが判明した。

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煉瓦造、瓦葺き

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右側(西側)に見えている2階建ての棟は戦後に増築したもの。

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窓台の下に花崗岩(万成石)がはめ込まれています。煉瓦+花崗岩は明治の近代建築によく見られるスタイルですが、万成石を使っているところに岡山らしさが表れています。

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縦長のアーチ窓が特徴的。これは後で出てくる旧工学部15号館・16号館にも共通しています。

この東側の壁の軒まわりを見上げると……

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煉瓦刻印がいくつか見えます。これは「×」でしょうか。

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こちらは「ヲ」のように見えます。

この考古学資料室には、長手方向の長さが異なる2種類の煉瓦が使われています。


【岡山大学工学部11号館】
広島陸軍兵器補給廠岡山支廠倉庫

1908年(明治41年)竣工
※従来は1911年(明治44年)竣工と伝えられてきたが、岡山大学文明動態学研究所の調査により間違っていたことが判明した。
※元は東側へこの5倍ほどの長さがあったが、大幅に減築されている。

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南面

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明かり取りの越屋根

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北面

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【岡山大学旧工学部15号館】
広島陸軍兵器補給廠岡山支廠北倉庫炊事場

1908年(明治41年)竣工
※従来は1911年(明治44年)竣工と伝えられてきたが、岡山大学文明動態学研究所の調査により間違っていたことが判明した。

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こちらも考古学資料室と同じ煉瓦造・瓦葺きでアーチ窓が並んでいます。

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一つ前の写真と同じ場所で、蔦が増える前に撮ったもの。

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西側。よく見ると写真中央にアーチ窓を埋めた痕跡があります。

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この棟の窓台はコンクリート。あとから改修したのでしょうか。

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手前に白い舗道が敷かれています。これは、

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耐火煉瓦です。いつ敷かれたものなのか分からないのですが、これも陸軍時代のものでしょうか。

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「SS」というマークは品川白煉瓦株式会社(現・品川リフラクトリーズ株式会社、1875年/明治8年創業)の商標。SSマークは現在も同社のロゴとして使われています。

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考古学資料室と同様に、この旧工学部15号館にも長手方向の長さが異なる2種類の煉瓦が使われています。

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すべてイギリス積み(長手だけの列と小口だけの列を交互に積んでいく)なのですが、こんな施工箇所を見つけました。中央やや左をご覧ください。長手の列の中に、小口が一ヶ所だけ挿入されています。


【岡山大学旧工学部16号館】
広島陸軍兵器補給廠岡山支廠衛兵所

1908年(明治41年)竣工
※従来は1911年(明治44年)竣工と伝えられてきたが、岡山大学文明動態学研究所の調査により間違っていたことが判明した。

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旧15号館の北側にある小ぶりな棟。

この他にも「橋梁演習施設跡」「倉庫」「門柱」「コンクリートの目隠し塀」「将校集会所庭園」などの遺構がありますが、今回はここまでとします。

私は、歴史の一部が目に見える物体として残るのはよいことだと思っています。特に戦争に関するものであればなおさら、完全に消去するべきではないと思います。文書による記録はもちろん大切ですが、モノが人に語りかけてくる力は大きい。市内に残る岡山大空襲の被災跡と併せて、こうした軍事に関する戦争遺跡もしっかり見ておきたいと思います。ここが大学であるということにも、運命的かつ示唆的なものを感じます。

【参考文献】
・『岡山大学埋蔵文化財調査研究センター紀要2005』(2007年)
・『岡山県の近代化遺産』(岡山県教育委員会、2005年)
・第27回RIDCマンスリー研究セミナー『旧日本陸軍第十七師団駐屯地造営時の古写真を読む』(野ア貴博、2023年)
 
【あわせて読みたい】
・戦災焼失地の内と外(1)
・戦災焼失地の内と外(2)
・戦災焼失地の内と外(3)




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2023年10月15日

内尾大水門と水路遺産

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先月(2023年9月)、妹尾川に残る内尾大水門(うちおおおずいもん/岡山市南区内尾〜東畦)が土木学会による「選奨土木遺産」に認定された。内尾大水門は興除新田(こうじょしんでん)の干拓に際して1823年(文政6年)頃に築造された石造水門だ。70cm四方の断面を持つ長さ10mの花崗岩を梁に使用した、現存するものでは国内最大の石造水門(樋門)である。

このブログではあまり記事にしていないが、私は長年、岡山の水路を鑑賞している。ここに掲載する写真も過去に撮影したものだ。水路は岡山の歴史・文化と密接に関わっている。

また、岡山は花崗岩文化圏であるため、水路+石造物である近世の水門・樋門はとても岡山らしい遺物であると言える。

ところで、私が調べた範囲では、今回の内尾大水門の選奨土木遺産認定を地元メディアはまったく報道していなかった。実にもったいない。内尾大水門だけの話ではなく、多くの人は「水路都市」としての岡山のポテンシャルに気づいていないように思う。

閑話休題。内尾大水門をじっくり見てみよう。

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花崗岩の笠木(梁)とタテリ(柱)を組み合わせた井桁構造の3連樋門。

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階段状に積まれた石壁がかっこいい。岡山の水門・樋門によく見られるスタイルだ。

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手前のいちばん上の石に「矢穴」が見える。意図的にここに置いたのかもしれない。

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木材でつくられた轆轤(ろくろ)が一ヶ所だけ残っている。

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この轆轤に棕櫚縄をかけ、それを巻き上げることで樋板を上げ下げ(開閉)していた。これを巻き上げ式と言う。

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タテリに穿たれた軸受け穴。

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上流側から見た様子。3連のうち真ん中だけ橋下高が高くなっている。これは舟運のためだ。

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川幅に応じた長い梁を使う設計は、強度の高い花崗岩だからこそ可能だったものであり、岡山の石造水門・石造樋門の大きな特徴になっている。

もし内尾大水門を見に行くことがあったら、ついでに内尾小水門(うちおこずいもん)も鑑賞してほしい。大水門と同時期につくられたもので、大水門の北にある。

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内尾小水門

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こちらも石壁を階段状にしているが、やや緩やか。

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軸受け穴。滑らかなカーブがすばらしい。石工の技術がいかんなく発揮されている。

さらについでに見てほしいものがある。内尾小水門のすぐそばにこんな構造物が残されている。

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これは1929年(昭和4年)に築造された濾過槽(ろかそう)だ。濾過槽とは、河川や用水の水を砂利・砂・木炭・棕櫚皮などで濾過して生活用水にするための設備。干拓地では井戸水が使えないため、このような設備が必要とされた。

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東畦にあるこの濾過槽は、近隣の約20軒が共同で使用していた。この濾過槽から鉄管で戸別配水していたという。当時は槽の上に屋根がついており、南隣りに作業用の小屋があったらしい。

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注目したいのは石積みとコンクリートが合体している点だ。これは昭和初期の構造物ならではだろう。もっと古い時代ならコンクリートは存在しないし、戦後の構造物だと石積みは少ない。このキメラ感にグッとくる。

また、他の地域なら煉瓦を使っていたかもしれない。これも花崗岩文化圏の遺産だ。

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ふたたび大水門のほうに戻るが、内尾大水門の下流側にコンクリート製の水門がある。新大水門だ。

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コンクリート構造物にはコンクリート構造物ならではの魅力がある。こちらもぜひ鑑賞してほしい。

内尾大水門が選奨土木遺産に認定されたのはすばらしいことだが、「お墨付き」だけを見るのは、これもまた、もったいないと思う。



【参考文献】
・公益社団法人土木学会>令和5年度の選奨土木遺産
・樋口輝久、馬場俊介「岡山藩の干拓地における石造樋門」(土木史研究 第19号、1999年)
・『岡山びと』第6号(岡山シティミュージアム、2012年)




posted by pictist at 21:59| 都市鑑賞