2023年07月15日

続・柳川ロータリーの謎(大供ロータリー編)

以前、「柳川ロータリーの謎」という記事を書いた。岡山市の柳川交差点は、過去に一度もロータリー交差点だったことがないのに、なぜか岡山市民から「ロータリー」と呼ばれている。その謎を追ったものだ。

ざっくりまとめると、「柳川交差点はかつてロータリー化する計画があったが、計画は途中で変更された。しかしなぜか計画変更後もロータリーと呼ばれ続けることになった」という内容だ。

また、柳川交差点だけでなく市内6ヶ所の交差点(柳川、大供、大雲寺、清輝橋、十日市、門田屋敷)がロータリー化される予定だったが、同じく計画は変更され、すべて信号式の交差点になったという経緯も書いた。大供(だいく)交差点や大雲寺交差点も、なぜか「大供ロータリー」「大雲寺ロータリー」と呼ばれている。

その後の調べで驚きの事実が判明した。

その6ヶ所の交差点のうち、大供交差点は、かつて実際にロータリー交差点だった時期があるのだ。このことは完全に忘れ去られている。


大供交差点(岡山市北区)

下記は1951年(昭和26年)発行の『山陽年鑑 昭和27年版』に掲載された企業広告。所在地の記載を見てほしい。カッコの中に「大供ロータリー」と書かれている。

山陽年鑑_広告.jpg

戦災復興計画に基づいて大供交差点が整備されたのは1958年(昭和33年)のことだ。他の交差点と同様に大供交差点もロータリー化される「計画」だったが、変更されている。

交差点の整備工事が始まるはるか以前の1951年(昭和26年)の広告で、場所をナビゲートするための手がかりとして「大供ロータリー」と表記されているのは、いったいどういうことだろう。

答えは一つしかない。大供交差点は、「整備される前はロータリー交差点だった」からだ。

前記の「市内6ヶ所の交差点がロータリー化される予定だった」という内容とは、実は矛盾していない。大供交差点だけは、「ロータリーからロータリーへ」整備される予定だったのだ。

もう一つ例を挙げよう。下記は宰府俤さんという方が1955年(昭和30年)に『岡山畜産便り』という業界紙に寄せた文章の一節だ。

「拙宅は、岡山、倉敷間の国道沿いで大供のロータリーを去ること西方約4kmの処にあるが、この間の国道沿線は、1、2年前までは備前平野の一角をなす美田の連続であった。」

やはり「大供のロータリー」と綴っている。

本当にロータリー交差点だったのだろうか。また、いつロータリー交差点になったのだろうか。

ここに、昔の大供交差点の航空写真がある。これは岡山大空襲の直前、1945年(昭和20年)5月に米軍が撮影したものだ。

IMG_0349.jpg
岡山シティミュージアム「第46回 岡山戦災の記録と写真展」展示写真よりトリミング
※クリック(タップ)で拡大できます。

中央島がはっきりと写っている。なんと戦中からすでにロータリーだったのだ。残念ながらロータリー化されたのがいつのことなのかは分からなかった。ただ、日本で最初にロータリー交差点ができたのは1934年(昭和9年)なので(和田倉門ロータリー交差点)、それ以降であることは確かだ。

大供交差点も空襲の被災範囲に入っているが、戦後もそのままロータリー交差点として運用され続けたのだろう。

この新たな発見を踏まえると、「柳川ロータリーの謎」が、以前より少しクリアになってくる。岡山市中心部には終戦前からロータリー交差点が存在していた。戦災復興計画で交差点が整備される前から、岡山市民はロータリーという言葉を使っていた。だから新しく整備され始めた「ロータリー化される予定の」交差点を躊躇なくロータリーと呼んだのだろう。

もちろん、結局はロータリーにならなかったのだから、ロータリーと呼んでいるのはおかしい。しかし以前に比べれば、だいぶ分かり合えそうだ。少なくとも大供交差点を大供ロータリーと呼んでいることについては、いちおう納得できる。

また、大供交差点のそばに「ロータリー」という名前の老舗喫茶店があるのは、ここが実際にロータリー交差点だったからなのだ。

航空写真以外では、大供交差点がロータリーだった頃の写真を見たことがない。1958年(昭和33年)の整備「前」の写真がどこかにあれば、ぜひ見てみたいものだ。

大供交差点_昭和38年.jpg
整備「後」の大供交差点/『岡山市勢要覧 1963年版』


【参考文献】
『岡山市勢要覧 1963年版』(岡山市、1963年)
『山陽年鑑 昭和27年版』(山陽新聞社、1951年)
『岡山畜産便り 昭和30年11月・12月合併号』(岡山県畜産協会、1955年)
岡山シティミュージアム「第46回 岡山戦災の記録と写真展 証言からたどる戦争と空襲」展示写真
「岡山市内ロータリーにおける交通処理について」(1959年、『第5回 日本道路会議論文集』所収/太田龍亀、松原尚武、坂手康人)
「岡山市街地のロータリー交差点に由来する円形状空間の独自性とその活用に関する研究」(土木学会『土木史研究 講演集Vol.25』所収/北村尚子、樋口輝久、馬場俊介、2005年)





posted by pictist at 11:57| 都市鑑賞

2023年07月04日

写真展示『塀を越えて・2』

写真家の広瀬勉さんが経営する高円寺のバー鳥渡(ちょっと)で開催中の写真展示『塀を越えて・2』に参加しています。前回『塀を越えて』に続いて2度目の参加になります。

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私は「ペットボトルのない風景」という作品を提出しました。「ある風景」ではなく「ない風景」です。

2023年7月23日まで。

posted by pictist at 15:52| あれこれ

2023年07月02日

それは本当に「火の見櫓」か

「火の見櫓」と呼ばれる構造物がある。正式には「警鐘台」と言う。頂部に半鐘が設置されている、あの鉄骨製のタワーだ。警鐘台は「一点モノ」で、さまざまな形状があるので見ごたえがある。

警鐘台は昔から多くの人が採集・鑑賞してきた。考現学の今和次郎も昭和初期にスケッチしているし、路上観察学会ももちろん採集している。名古屋の野外活動研究会も然り。

私の場合は「目に付いたら撮影することがある」といった程度で、それほど熱心に鑑賞してこなかった。警鐘台の歴史についても詳しく調べたことはない。

そんなわけでこれまで警鐘台についてじっくり考えたことがなかったのだが、先日、「警鐘台が活躍していたのは必ずしも火災のときだけではないんだな」と気づいた。

普段から「火の見櫓」と呼んでいるので、なんとなく「火災時のためのもの」というイメージのまま思考が止まっていたが、よく考えると災害は火災だけではない。


【水防を兼ねた警鐘台】

私は岡山市に住んでいる。岡山は昔から水害に悩まされてきたまちだ。近年はダムの造成や護岸の強化などによって出水の頻度は少なくなっているが、かつては被害が多かった。

河川のそばに暮らす住民は、大雨のたびに決壊や越水の心配をしただろう。ということは、河川のそばに立っている警鐘台は、火災だけでなく水防警鐘台としての役割も担っていたのではないだろうか。

実際に水害時に使われた事例があれば知りたいし、また幸いにしてこれまで使われたことがなかったとしても、警鐘台をつくる際に住民が水防を意識していたかどうかを知りたい。

「河川のそばに警鐘台のある町」にお住まいの方で、地元の古老や町内会長さんなどにお話を聞くことができる方がいらっしゃったら、ぜひ聞き取りをしてみてほしい。
※もし可能な方がいたら情報提供していただけるとうれしいです。


【「火の見櫓」ではない警鐘台もある】

岡山市の旭川沿岸、京橋の近くに、登録有形文化財にもなっている大正時代の警鐘台「京橋の火の見櫓」がある。これも通常はみんな「火の見櫓」と言っているが、正式名は「京橋警鐘台」または「内山下(うちさんげ)分団警鐘台」である。

内山下地区連合町内会によると、京橋警鐘台は過去、火災時はもちろん、旭川の増水の際にも住民に危険を知らせていたそうだ。こうした「河川沿いの警鐘台」の活躍事例は、他にもあるのではないだろうか。

なんでもかんでも勝手に「火の見櫓」と呼んでいると、先入観がじゃまをして大事なものを見落としてしまいそうだ(今までの私のように)。

たとえば下記「海吉出村町内会」のページで紹介されている警鐘台は、水防のためだけにつくられたものだ。だから「火の見櫓」ではない。残念ながら現存していないが、「水防を目的としてつくられた警鐘台」が少なくとも一基は存在していたわけで、探せば他にもあるかもしれない。

海吉出村町内会>出村スポット>水防用半鐘杭
鉄道が河川を横切っていた場所なので事例としては特殊だが、警鐘台を考える上で重要な記録だ。

このページで紹介されているような梯子型の木製警鐘台を、岡山では半鐘杭(はんしょうぐい)と呼ぶ。岡山弁で訛って「はんしょうぎぃ」あるいは「はんしょうぐえ」と言う。岡山以外の地域にもこうした梯子型の木製警鐘台はあるのだろうか。また、各地ではなんと呼ばれているのだろうか。

水防警鐘台は「水見櫓」という言い方もあり、岡山県では矢掛町(やかげちょう)の水見櫓が有名だ。これは実際の警鐘台ではなく、やかげ郷土美術館のシンボル兼展望台として昭和後期に建設したものだが、矢掛は小田川という川のそばにある低地集落なので、昔は水見櫓が存在していたらしい。

ともかく、半鐘が設置された塔型・梯子型の構造物すべてを、安易に「火の見櫓」と呼ぶべきではなさそうだ。半鐘杭はそもそも「櫓」ではないし。はっきりしない場合は「警鐘台」と総称したほうがいいだろう。


【日畑の半鐘杭】

下記の写真は岡山県倉敷市日畑にある半鐘杭。足守川(あしもりがわ)という川のそばにある。Googleストリートビューで周辺の様子を確認してみてほしい。推測だが、この半鐘杭の主目的は水防なのではないだろうか。できれば住民の方に取材してみたいが、なかなかその余裕がない。もしなにかご存じの方がいたらご一報ください。

倉敷市日畑の半鐘杭02.jpg

倉敷市日畑の半鐘杭01.jpg

倉敷市日畑の半鐘杭03.jpg


日畑の半鐘杭




【九蟠の半鐘杭】

岡山市東区升田、九蟠(くばん)地区に一本柱の半鐘杭がある。児島湾の防潮堤にある半鐘であり、これはどう考えても「火の見」目的ではないだろう。奧に見えているのは沖新田の用水路「江川」。

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【西大寺の半鐘杭】

岡山市東区西大寺エリアにある半鐘杭。半鐘はなくなっているが、おそらく警鐘台としてつくられたものだろう。吉井川の支流の干田川(ほしだがわ)沿いに立っているので、これも火災だけでなく水防を意識したものではないかと想像している。

IMG_0207.jpg

西大寺地区にはもう一つ半鐘杭を見つけているのだが、まだ撮影できていない。

また何か分かったら追記します。





posted by pictist at 21:51| 都市鑑賞