岡山市北区に中山下(なかさんげ)というエリアがある。このあたりには「西中山下公園」と「東中山下公園」、2つの児童公園があるのだが、東西を冠しているにも関わらず、なぜか南北に位置している。

OpenStreetMap contributors「東」の北に「西」。街区に沿ってまっすぐ南北の軸線上にあることが分かる。なぜこんなことになったのだろうか。
まずはそれぞれの住所を見てみよう。東中山下公園の住所は「岡山市北区中山下一丁目」。西中山下公園の住所は「岡山市北区蕃山町」。西中山下公園は中山下ではない。どういうことか。
地理に興味のある方ならすぐに「町名が変わったからではないか」と考えるだろう。その通り、蕃山町(ばんざんちょう)は住居表示制度により1964年(昭和39年)に生まれた町名で、ここはそれ以前は「西中山下」だった。また、東中山下公園のある場所の半分はかつて「東中山下」だった。
ではなぜ東中山下の北に西中山下があるのか。東中山下、西中山下は、それぞれどのような町域だったのだろうか。住居表示導入以前(近代)の西中山下・東中山下エリアを現在のマップに重ねたのが下の図だ。
※厳密な重ね図ではありません。
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OpenStreetMap contributorsなんという細長さ。青いエリアが西中山下で、赤いエリアが東中山下である。中山下はなぜこんなにも細長いのか。それは、ここが城下町だからだ。岡山城は梯郭式(ていかくしき)という方式でつくられており、本丸の西方向にのみ内堀・中堀・外堀があった。
内堀と中堀の間のエリアは三之曲輪(さんのくるわ)、中堀と外堀の間のエリアは三之外曲輪(さんのそとくるわ)と呼ばれていた。この三之外曲輪は「中山下」とも呼ばれた。そして中山下を東西に分け、西側を西中山下、東側を東中山下と呼んだのである。
上の図で言うと、青いエリア(西中山下)の西を通る道(現在の柳川筋)が、かつての外堀。赤いエリア(東中山下)の東を通る道(天満屋百貨店の西側・バスステーションを貫く道)が、かつての中堀だ。
堀と堀の間がもともとの町域だったので、近代以降もその町域が引き継がれたというわけだ。外堀は1875年(明治8年)に、中堀は1881年(明治14年)に埋め立てられた。

西中山下公園のコンクリートすべり台

東中山下公園のコンクリートすべり台
重ね図を見て2点、分かることがある。一つは、西中山下エリアが北部で東側を侵食していること。もう一つは、東中山下公園の敷地の半分が西中山下エリアにかかっていることだ。
まず後者を考えてみよう。西中山下と東中山下、半分ずつにかかっていたのであれば、東中山下公園の名称は「西」と「東」のどちらでもありえたはずだ。なぜ「東」が採用されたのか。
おそらくこれは、西中山下公園と東中山下公園が同時に計画されたからだろう。両公園が現在の場所につくられることが決まり、それぞれを命名する必要が生じたとき、西中山下公園の名前は当然、西中山下公園でしかありえなかった。必然的にもう一方は「東」を採用した、と考えられる。単に「中山下公園」とする選択肢もあると思うが、そうしなかったようだ。
両公園は岡山市の「都市計画公園」であり、戦後まもなくから計画が始まっていた。だから早い時期から場所と名前が決定していた。1958年(昭和33年)に出版された『概観岡山市史』にも両公園の名前がすでに掲載されている。
実際に開園するのは東中山下公園が1965年(昭和40年)、西中山下公園が1970年(昭和45年)なので、ずいぶん前から計画されていたことが分かる。両公園が開園したとき、すでに住居表示制度により町名・町域が変わっていたが、決定済みの名前がそのままつけられたということだろう。
さて、もう一つの疑問である。なぜ、西中山下は北部で東側を侵食していたのか。
西中山下公園周辺のマップを拡大してみよう。

OpenStreetMap contributors西中山下公園の北西に「岡山藩藩学」と記されている場所がある。下記は同じ場所のGoogleマップ。拡大して見てみてほしい。
これは「岡山藩学校」の跡地である。岡山藩学校は1669年(寛文9年)、岡山藩主池田光政によって藩士子弟の教育を目的に創設された。校地は円乗院という寺の跡地に加え、家士の邸宅17軒を移転させて造営した。
現在、史蹟として保存されているのは藩学校の入口にあった泮池(半円形の池)と石桁橋のみ。それ以外の敷地は岡山中央中学校の校舎とグラウンド、本行寺、商工中金岡山支店などになっている。「岡山藩藩学跡」と記されている部分は「入口の跡」で、かつてはそこから北へ校地が広がっていたのだ。
下図は現在の地図に岡山藩学校の敷地を重ねたもの。広大だったことが分かる(水色のエリア)。

OpenStreetMap contributors※厳密な重ね図ではありません。
次に、岡山藩学校が載っている江戸時代の地図を見てみよう。

岡山内曲輪絵図(おかやまうちぐるわえず/池田家文庫絵図公開データベースより)をトリミング
宝永年間(1704-11)に作成されたと考えられている地図だ。現在の街路の区画と異なっているので分かりにくいと思うが、外堀と中堀、「学校」と書かれた広い敷地を手がかりに、位置関係を把握してみてほしい。

※「岡山内曲輪絵図」を加工
水色の丸印をつけた場所が、現在の西中山下公園。このあたりには侍屋敷があったようだ。注目してほしいのは、この侍屋敷と藩学校の間には道がなく、ひと続きの敷地になっているらしいことだ(現在は西中山下公園の北側を東西に道が通っている)。
また、もう一つ注目してほしいのが中堀のルートである。中堀が東へ折れ、北東へ続いている。ぐるりとカーブしているあたりは天神山(現在、天神山文化プラザのある場所)だ。
中山下は「堀にはさまれた町」を指すので、こうして中堀が別の方向へ向かうと、中山下と認識しにくくなる。だから東中山下はこの中堀が折れるあたりまでと考えられたのではないだろうか。
一方、外堀はさらに北へ続いているので、西中山下側はもう少し北側まで中山下と認識された。こうして中山下の東西エリアが、終端でごちゃつくことになったのではないかと想像できる。
それに加えて、岡山藩学校が造成されたことにより、大きなひとまとまりの敷地が中山下の北端に誕生した。岡山藩学校は西中山下側を中心につくられたので、この敷地全体が「西中山下」と認識されるようになった。以上のような複合的な事情によって、西中山下が東中山下に覆いかぶさるような敷地が成立したのではないだろうか。

現在の岡山藩学校跡(北を向いたところ)。史蹟として泮池と石桁橋が保存されている。この橋を渡った正面に、藩学校の正門があった。

北東の隅から南西方向を向いたところ。

夏季には蓮が咲く。
岡山藩学校は1871年(明治4年)に閉校した。同年、廃藩置県により岡山の旧城下町は五大区に分けられた。その際、東・西中山下は第一区三番小区に入り、町名が残った。
その後、1875年(明治8年)に藩学校の校舎と校地を「岡山県師範学校」が受け継ぎ、使用することになる。

「最新岡山市街地図」(デジタル岡山大百科より)をトリミング
上の図は1906年(明治39年)発行の「最新岡山市街地図」。師範学校が見える。すでに埋め立てられているはずの外堀が描かれているが、外堀は完全に埋められたわけではなく、幅を狭くして排水溝として利用されていたためである。その溝に沿って柳が植えられたことから「柳川」と呼ばれるようになった。
さらに1911年(明治44年)からこの場所は「岡山県女子師範学校」になり、1945年(昭和20年)まで存続した。江戸時代に建てられた藩学校の講堂や校門などが、この年まで使用されていた。1924年(大正13年)には現役の学校校舎でありながら史蹟に指定されている。しかし1945年(昭和20年)6月29日の岡山大空襲により全焼した。

「実測岡山市及郊外明細地図」(デジタル岡山大百科より)をトリミング
上の図は1922年(大正11年)発行の「実測岡山市及郊外明細地図」に掲載された岡山県女子師範学校。前述した「藩学校とひと続きの敷地にある侍屋敷」エリアが、女子師範学校としてまとめられている。これは、ここに女子師範学校附属幼稚園が設けられたためである。ここが現在、西中山下公園のある場所だ。
ちなみにその東側に見える「裁判所」は、現在の岡山東税務署。ここは当時、弓之町だった(現在は天神町)。
1923年(大正12年)、女子師範学校附属幼稚園のあった場所に岡山県立図書館が新築される。

昭和4年発行の「岡山新市街細図 附岡山後楽園図」(岡山県立記録資料館データベースより)。「岡山県女子師範学校」と「岡山県立図書館」の当時の所在地を調べると、はっきり「岡山市西中山下」と書かれている。
この地図に西中山下エリアと東中山下エリアを重ねたのが下図。青いエリアが西中山下、赤いエリアが東中山下だ。図書館の東半分、赤丸をつけた場所が現在の西中山下公園。

※「岡山新市街細図 附岡山後楽園図」を加工
こうして見ると、赤丸の部分に圧力の高まりのようなものを感じる。西中山下と東中山下に上下から押されているかのようだ。なにかが少しでも違っていたら、ここは東中山下になっていたのではないかと思ってしまう。
戦後、図書館の北側を東西に道路が通ることになる。それによって敷地が分離し、現在の西中山下公園の区画が生まれた。この新道は昭和初期からすでに計画されていた。

昭和6年発行の「実地踏測 最新岡山大市街地図 附後楽園絵図」(岡山県立記録資料館データベースより)。薄い赤ラインは都市計画路線を表している。
岡山県立図書館は岡山大空襲で全焼し、移転した。そして戦後に計画された13の都市計画公園の一つとして、この場所に西中山下公園がつくられることになったのである。下の写真は、上記「新道」の東から西方向を見たところ。左に見えているのが西中山下公園で、右に見えているのが岡山中央中学校のプール。かつてはここがひと続きの敷地だったのだ。

岡山県女子師範学校の跡地は戦後、敷地の真ん中を南北に市道が通り、東西に分断された。東側には岡山市立旭中学校がつくられ、現在は岡山中央中学校になっている。西側には本行寺、商工中金岡山支店などが建っている。
振り返ってみると、今の場所に西中山下公園があるのは、「公園がつくれるほどの広い敷地」がそこにあったからである。それ以前は「図書館」であり、それ以前は「幼稚園」だった。その幼稚園は学校の附属幼稚園なので、学校がなければここに幼稚園もなかったはずだ。複数の家屋が建ち並ぶ街区だっただろう。
岡山藩学校がつくられたために、後年、その南東側の土地が「公園をつくるのに適した敷地」になったわけだ。また、戦争がなければ図書館がなくなることもなかったので、その場合もこの場所に公園はなかっただろう。
中山下が成立したのは外堀がつくられた1601年(慶長6年)以降のことなので、400年以上前になる。岡山藩学校がつくられたのも350年ほど前だ。はるか昔の町の成り立ちや、近代の戦災、都市計画などさまざまな事情が絡み合い、「東西」なのに「南北」にあるという不思議な公園が生まれた。
都市は面白い。それは、誰にも100%コントロールすることができないからだ。まっさらな土地の上に誰かが一からまちをつくるとしたら、『「東西」なのに「南北」にある公園』などわざわざつくらないだろう。こうした都市の「ままならなさ」に、私は惹きつけられる。
【参考文献】
『岡山藩学校史』(志賀正道、1934年、細謹舎書店)
『岡山市商工案内 昭和十三年版』(1938年、岡山商工協会)
『概観岡山市史』(岡山市史編集委員会、1958年、岡山市役所)
『岡山市史 宗教教育編』(岡山市史編集委員会、1968年、岡山市役所)
『岡山市史 戦災復興編』(岡山市史編集委員会、1960年、岡山市役所)
『岡山市の公園』(岡山市建設局都市整備部公園課、1986年、岡山市)
『岡山県立図書館60年史』(1967年、岡山県総合文化センター)
『岡山県大百科事典(上)』(1980年、山陽新聞社)
『岡山県の地名 日本歴史地名大系34』(1988年、平凡社)
『岡山市の地名』(岡山市地名研究会、1989年、岡山市)
岡山県立図書館 デジタル岡山大百科 郷土情報ネットワーク
岡山県立記録資料館データベース
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