
岡山城下。旭川に月見橋(つきみばし)というカンチレバー式(ゲルバー式)トラス橋が架かっている。岡山城と岡山後楽園を結ぶ橋で、1954年(昭和29年)に架橋された。この橋は、他ではあまり見られないユニークな姿をしている。
まず橋脚が1基だけであること。通常、カンチレバー橋の橋脚は2基以上ある。この1基だけの橋脚が北側(後楽園側)に寄っていて、橋のシルエットがアシンメトリになっているところが面白い。

構造的に考えるなら橋脚は真ん中に置いたほうが有利なはずだが、なんらかの理由でずらしたようだ。この非対称の美が、月見橋の魅力になっている。橋脚部から南側(岡山城側)へ向かってスーッと伸びる鉄骨のラインがかっこいい。
月見橋は人道橋なので幅は3メートルと狭い。橋長も長くない。だからひとつかみで全体を捉えることができて鑑賞しやすい。ヒューマンスケールゆえの親しみやすさが感じられる橋梁だ。

日本では昭和後期以降、鋼カンチレバートラス橋はほとんどつくられなくなった。月見橋のような独特な橋はなおさら、今後新たにつくられることはないだろう。

この月見橋、実は岡山城より古い。岡山城天守は空襲で焼失したため、1966年(昭和41年)に鉄筋コンクリート造で再建された。月見橋の完成から12年も後のことである。
月見橋は「岡山産業観光大博覧会」という観光PRイベントの開催に合わせてつくられた。同博覧会は1954年(昭和29年)4月から5月にかけて会期50日間、市内3会場でおこなわれ、県内・県外から約40万人が来場した。予算1億円、総面積3万坪という大イベントだった。

「岡山産業観光大博覧会案内地図」より
第一会場は烏城公園(岡山城跡)、第二会場は東山公園、第三会場は南方広場(現在の南方公園あたり)。第一会場の烏城公園から岡山後楽園へ足を運びやすいように、月見橋の架橋が計画されたのだ。
岡山後楽園はこの2年前、1952年(昭和27年)に国から特別名勝に指定されたばかりだった。もとより三大名園の一つとして有名な観光地だったが、この機会にあらためて後楽園をアピールしたいという意図もあったのだろう(※1)。
残念ながら工事が難航して博覧会の会期中には間に合わず、月見橋は7月に完成する。翌年発行された1955年(昭和30年)版の『岡山市勢要覽』は、月見橋についてこう述べている。
「この新型橋は、この付近一帯の景勝に一段と風致を添えている」
「今では岡山の新名所となっています」
前述したように、このときはまだ天守は再建されていない。月見橋は、かろうじて被災を免れた
月見櫓(つきみやぐら)とともに、このエリアのランドマークになることを期待されたはずだ(※2)。
岡山大空襲で焼け野原となった岡山市が、戦後、再出発して9年。岡山産業観光大博覧会は、岡山市の復興を内外にアナウンスする、未来への希望に満ちたイベントだったに違いない。イベントに合わせて「恒久的な構造物」としてつくられた月見橋は、復興と希望の象徴だったと言える。

岡山城天守が再建されて半世紀以上が経つ。月見橋の鉄骨トラスと天守との組み合わせが似合わないと言う人もいれば、むしろそれが良いと言う人もいる。人それぞれ好みはあるだろう。ただ、いずれにしても、景観というものを単純に絵画のように見て終わるのではなく、時間の積み重ねの現れとしても捉えることが大切だ。
私たちが生きるこの街は、テーマパークではない。戦後の岡山の歩みを振り返りながら、月見橋が語りかけるものを、いま一度見つめてみたい。

コンクリート橋脚のデザインがかわいい。河畔は遊歩道になっているので、ぜひ橋の下からも鑑賞してみてほしい。

後楽園側に目をやると、まるで鉄橋が森に突っ込んでいるかのように見えてグッとくる。

上部に鉄骨(上横構)がない「ポニートラス」なので、すっきりした印象だ。
※1 当時、岡山後楽園は無料で公開されていた(博覧会終了後の1954年6月より有料化)。
※2 月見橋は当初は有料橋だった。通行料は10円。ただし17時以降は無料とした。*本稿の執筆にあたって、八馬智さん(千葉工業大学創造工学部教授)、磯部祥行さん(実業之日本社)に貴重な助言をいただきました。深く感謝いたします。
【参考文献】
『岡山産業観光大博覧会案内地図』(岡山大学地域社会研究会、1954年)
『岡山市勢要覽 昭和30年版』(岡山市総務部総務課、1955年)
posted by pictist at 19:46|
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