2022年02月27日

西大寺鑑賞

西大寺(岡山市東区)は好きなまちで、これまでに何度も歩きました。いちばん古い写真は10年以上前に撮ったものなので、以下の物件の中には現存しないものもあります。

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恵屋

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アワヤ洋品店跡

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宮崎油店

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川崎ミシン商会(旧雄神農協 ※1)

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岡山市立西大寺公民館 中野分館(旧幼稚園舎、昭和5年/1930年竣工 ※2)
※昭和37年(1962年)より公民館

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岡山市立西大寺公民館(旧西大寺市民会館、昭和45年/1970年竣工)

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西大寺駅前に残されている「西大寺市」だった頃のマンホール蓋

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山陽板紙工業。同社は1908年(明治41年)に創業しているので、このレンガも明治時代のものだと思われます。

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山陽板紙工業のそばにある、鴨越用水(通称:西川)が新堀川をくぐる逆サイフォン(伏せ越し)。分かりにくいですが、手前の新堀川(左から右へ流れている)の下を、奧から縦方向に流れる鴨越用水がくぐっています。

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サイフォンの出口

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水やりなどに使うのでしょうか。用水が今も利用されていることが伺えます。

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新堀川。右奧に見えるのが西大寺観音院です。

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裸まつりのシャッターアート

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正面の建物は元銭湯。屋根の上に湯気抜きが見えます。川沿いというロケーションも銭湯らしさの一つ。

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神武橋(昭和11年/1936年竣工)の高欄のグリル。

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モザイクタイルの住棟番号がかわいい。

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新堀川のそばにある「分木の石垣」と呼ばれる場所。川が氾濫したとき、ここに板を入れてくいとめる仕組みです。

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※1 『岡山県の近代化遺産』(岡山県文化財保護協会、2005年)による
※2 岡山市立西大寺公民館からの回答による

【あわせて読みたい】
・西大寺バスターミナルの謎
・西大寺バスターミナルの謎(解決篇)
・西大寺鑑賞2
・西大寺鑑賞3
・西大寺鑑賞/橋と水路編

posted by pictist at 23:30| 都市鑑賞

2022年02月26日

岡山駅前タクシー行灯コレクション

JR岡山駅近辺で撮影したタクシー行灯です。

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タグ:都市鑑賞
posted by pictist at 03:28| 都市鑑賞

2022年02月11日

フォードと型板ガラス

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旭硝子「ハイウェイ」

型板ガラスは「ロールアウト法」という成形法によってつくられる。この技術を開発したのは、アメリカの自動車メーカー、フォード社(フォード・モーター・カンパニー)だ。1922年(大正11年)に開発されたこの技術を、1935年(昭和10年)に旭硝子(現AGC)等が導入する。ここから日本における本格的な型板ガラスの生産が始まった。

昭和中期、日本の板ガラスメーカー3社はさまざまな柄の型板ガラスを競って製造した。その中に「ハイウェイ」という商品がある。メーカーは旭硝子。昭和40年代に流通していたものだ。

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旭硝子「ハイウェイ」

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旭硝子「ハイウェイ」

型板ガラスの起源がフォードであることを知ると、愉快な符合だと思う。そして「ひょっとしたらデザイン担当者の発想のきっかけになったのかも」と、無茶な想像を広げてみたくなる。

ちなみに、同時期に日本板硝子からは「サーキット」という商品が出ている。フォードが「ル・マン24時間レース」に参戦していた、まさにその時代の製品である。

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日本板硝子「サーキット」


※ロールアウト法は別名「フォード法」とも呼ばれる。自動車用ガラスの製造を目的に開発された。
※ロールアウト法そのものの起源は17世紀にまで遡ることができるが、フォード社はそれを発展させた「水平連続圧延法」を開発した(ピルキントン・ブラザーズ社が協力)。現在もこの技術を使って型板ガラスや網入り板ガラスが製造されている。
※日本板硝子は1932年(昭和7年)にコルバーン式製板機による型板ガラス「モール」の生産に成功しているが、ロールアウト法による型板ガラスの量産を開始したのは旭硝子の翌年、1936年(昭和11年)からである。



【参考文献】
・「板ガラス成形技術の変遷 ―フロート法の台頭と技術の棲み分け ―」(大神正道、2009年)
日本板硝子100周年サイト

【あわせて読みたい】
・型板ガラス「しきし」の謎
・型板ガラス「菊」の謎(“半”解決篇)
・型板ガラス「アラビヤン」と「クローバ」
・型板ガラスコレクション(セントラル硝子編)
・型板ガラスコレクション(旭硝子編_前編)
・型板ガラスコレクション(旭硝子編_後編)
・型板ガラスコレクション(日本板硝子編)
・型板ガラス_ソフト系と石目系
・型板ガラス_モールとダイヤ
・結霜ガラス




posted by pictist at 14:04| 都市鑑賞

2022年02月05日

400年の歩道橋

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岡山駅の近くにある岩田町(いわたちょう)歩道橋。かっこいい。昔から好きなスポットだ。

この歩道橋は道路をまたぐためのものではない。地下道の入口スロープをまたぐために設置されたものだ。しかも新幹線の高架下(中層梁の上)に架かっている。だから他ではあまり見ることのない、独特な景が生まれている。

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地下道の名前は万町(よろずちょう)地下道。自転車・歩行者用の地下道だ。万町というのは旧町名で、現在は岩田町〜奉還町になっている。

岩田町歩道橋は不思議な歩道橋である。この歩道橋を使う人はまったくいない。脇の道を通行すれば済むからだ。そしてスロープをまたぐため、けっこう長い。

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高架下に架かる岩田町歩道橋

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北側。歩道橋の左に歩行者用の地下道入口がある。

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歩道橋を登って振り向いたところ。右に歩行者用の地下道入口がある。

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けっこう長い。

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南側。通行者が右へ抜けられるよう、歩道橋の階段が狭まっている。

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狭まっていく。

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先ほどの場所を右へ抜けたところ。奧に自転車用の地下道入口スロープがある。



あえてアクロバティックな言い方をするなら、この不思議ですてきな構造物ビューを生み出したのは、戦国大名の宇喜多秀家である。

どういうことか。

宇喜多秀家(1572〜1655)は「岡山」をつくった人物だ。父親の宇喜多直家が当地の領主だった頃は「石山」という丘に城があった。その後、家督を継いだ秀家が「岡山」という丘に城を築き、城下町を整備したことで、一帯が「岡山」と呼ばれることになる。秀家は、現在に続く岡山市中心部のまちの基盤をつくった。「岡山」という都市の創生者と言えるだろう。

秀家がおこなった都市改造の一つに、山陽道(のちの西国街道)の付け替えがある。山陽道はもともと、岡山城のはるか北を通っていた。現在の国府市場〜三野〜津島笹が瀬を通るルートだ。

それを直家が変更し、岡山城の南側を通るルートに付け替えた。さらにそれを秀家が、城下町を縦断するルートに付け替えたのである。この道が西国街道となり、以降この地の主要幹線道路になった。

下の図は「岡山城下町と現在の市街地重ね図」(岡山シティミュージアム制作)をトリミングしたもの。オレンジ色のラインが山陽道(西国街道)だ。左側、東西方向に岩田町と万町を通っているのが分かる。この道が300年後、鉄道と交差する。

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「都心創生まちづくり構想/資料編」(岡山市政策局事業政策課、2014年)より



下の図は1875年(明治8年)に出版された「官許岡山県市中略図」の一部(左が北)。岩田丁(岩田町)と萬丁(万町)を貫いて西国街道が通っている。「備中板倉道」と書かれているのは、この道の先に宿場町「板倉宿」があるためだ。

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岡山デジタル大百科>郷土情報ネットワーク>「官許岡山県市中略図」より



1891年(明治24年)、山陽鉄道(のちの山陽本線)が岡山へ延伸し、岡山駅が開業する。このとき、線路が西国街道と交わることになった。そこで交点に設けられた踏切が、1960年(昭和35年)まで存在していた万町踏切である。

下の図は1900年(明治33年)に発行された「大改正新市区岡山市明細地図」の一部(左が北)。線路と幹線道路(赤いライン)が交わっているのが分かる。万町踏切の名前の通り、交点は万町エリアにある。

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岡山デジタル大百科>郷土情報ネットワーク>「大改正新市区岡山市明細地図」より

下の図は1934年(昭和9年)の様子。赤いラインが万町踏切を通っているが、これはバス路線を表している。万町踏切は、鉄道で分断されたまちの中心部の東側と西側を結ぶ、重要なポイントだった。

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岡山デジタル大百科>郷土情報ネットワーク>「最新岡山市街地図」より



1927年(昭和2年)には万町踏切の脇に歩行者用の陸橋が架けられた。モータリゼーション時代のはるか前になぜ人道橋がつくられたのかと言うと、牛馬が通行していたからだ。当時、踏切を待っていた馬が汽車の音に驚いて暴れだし、警手をはね飛ばすという事故があった。それをきっかけに陸橋がつくられることになった(しかし陸橋を使う人は少なかったようだ)。

1953年(昭和28年)、万町踏切の北、約200メートルの場所に万町跨線橋が完成する。自動車は万町跨線橋を通行することとなり、万町踏切は歩行者・自転車専用踏切になった(万町跨線橋の完成と同時に万町踏切は廃止される予定だったが、撤去反対運動が起こり残されることになった)。

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1953年(昭和28年)、万町踏切撤去反対署名運動の様子。左側に踏切がある。歩行者用の陸橋も写っている。
岡山県立記録資料館所蔵/ファイル番号:00022-D004

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『岡山・玉野の昭和』より、1959年(昭和34年)に撮影された万町跨線橋。当時は2車線だった(現在は8車線)。

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『岡山県民の昭和史』より、1955年(昭和30年)の万町踏切の様子。

存置運動が実り万町踏切はいったんは存続した。ただ、この踏切は駅構内にあるため遮断回数が多く、「あかずの踏切」として有名で、以前より交通の阻害要因となっていた。

そこで県・市・鉄道局が「万町踏切代案研究委員会」を結成し、踏切の代案を検討する。その結果、計画されたのが万町地下道である。1960年(昭和35年)1月19日、万町踏切の廃止と同時に万町地下道が開通。全国でも珍しい円形ループ式の地下道が岡山市に誕生した。

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万町地下道の奉還町側の入口。右に自転車用のスロープ、左に歩行者用の階段がある。

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前述した万町跨線橋の建設によってモータリゼーション社会にいちはやく対応、さらに万町地下道の建設で「あかずの踏切」問題も解決した。めでたしめでたし……となるところだったが、まだ終わらない。後年、この場所に新幹線が通ることになるのだ。

万町地下道の竣工から12年後、山陽新幹線「新大阪〜岡山」間が開通する。高架が地下道の入口をまたぐことになった。そこで問題になったのが橋脚である。

橋脚を建てるとそれまで歩道だったスペースがふさがり、歩行者が車道側にはみ出すことになる。危険だ。地下道がなければこの問題は起こらなかった。

そこで地下道の入口をまたぐ歩道橋が架けられることになった。工事は当然、新幹線の高架建設と一体的におこなわれた。この場所の高架「岡山駅東高架橋」の竣工は、『山陽新幹線新大阪・岡山間建設工事誌』によると1970年(昭和45年)6月。そして岩田町歩道橋の竣工年は1970年(昭和45年)8月。同時期に完成している。

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こうしてできあがったのが冒頭のビューである。

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自転車には地下道の入口の脇を通ってもらい、歩行者には歩道橋を使ってもらうという意図でつくられたようだが、実際には歩行者も脇の自転車道を通行しており、歩道橋はまったく使われていない。

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これは高架(とその下の地下道)と、車道の間の自転車道。橋脚があるために道幅が狭くなっていることが分かる。この幅だと自転車と歩行者の両方が通行するのは危険とみなされ、歩道橋がつくられたのだろう。

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『戦災復興誌 第九巻』(都市計画協会、1960年)より、工事中の万町地下道。今と入口の向きが少し異なっていることが分かる。後年、高架がつくられる際に車道を拡幅整備したためだろう。高架下のラインギリギリまで車道になったため、地下道の入口をそのラインの内側に収め、さらに上記の理由により歩道橋をつくる必要が生じたわけだ。

もしも地下道がなければ、たとえ高架の建設と車道の拡幅がおこなわれても、高架下を歩行者・自転車ともに通行することができるので、歩道橋をつくる必要はなかった。

ざっとまとめると、こうだ。

16世紀末/街道の付け替えがおこなわれ、岩田町〜万町を通ることになる。

1891年(明治24年)/山陽鉄道「岡山駅」開業。線路と街道が交わり、万町踏切ができる。

1953年(昭和28年)/万町跨線橋が完成し、万町踏切は歩行者・自転車専用になる(廃止される予定だったが存続)。

1960年(昭和35年)/万町踏切が廃止され、同じ場所に万町地下道が開通する。

1970年(昭和45年)/新幹線の高架「岡山駅東高架橋」と岩田町歩道橋が竣工する。

400年近く前からいくつもの事情が積み重なり、その結果、この場所に不思議ですてきなビューが生まれた。

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岩田町歩道橋の上から東を眺める。正面の道が西国街道だ。

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岩田町歩道橋の上から西を眺める。西国街道が線路で途切れている。かつてはここに万町踏切があり、上掲の道につながっていた。

都市はさまざまな事情の集積でできあがっている。つぶさに見ていけばどこでもそうなのだが、ときどき、それが面白いかたちで表出している場所がある。

【参考文献】
・「都心創生まちづくり構想/資料編」(岡山市政策局事業政策課、2014年)
・ウェブサイト「岡山城」(岡山シティミュージアム)
・ウェブサイト「写真に残された昭和の風景」
・『山陽新幹線新大阪・岡山間建設工事誌』(大阪新幹線工事局、1972年)
・山陽新聞コラム「おかやま今昔33」(1960年1月31日)
・『岡山市史 産業経済編』(岡山市役所、1966年)
・『岡山市百年史』下巻(岡山市、1991年)
・『岡山・玉野の昭和』(樹林舎、2019年)
・『岡山県民の昭和史』(山陽新聞社、1986年)
・『戦災復興誌 第九巻』(都市計画協会、1960年)

【あわせて読みたい】笠岡の立体交差




posted by pictist at 11:22| 都市鑑賞

2022年02月02日

岡山市のネオンサイン

1. パチンコ「パーラー ハリウッド」

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※追記/2024年消滅


2. サウナ「カプセル イン 岡山」

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※追記/2023年閉業


3. 「肉のほそだ」

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4.サウナ「ニューエデン」

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※2022年閉業


5. ホテルUSA

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