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岡山市中心部で「空襲をまぬがれたまち」として知られているのが「番町(ばんちょう)」と「出石町(いずしちょう)」です。番町には戦前の洋風建築がいくつか残っており、出石町にも戦前の看板建築や明治・大正時代の民家・商家が残っています。
被災図を見ると、出石町は南側の下出石町(当時)まで焼失していることが分かります。

この被災エリアの境界へ行ってみました。下の矢印の場所です。

星マークの地点

矢印の場所の少し南側に立ち、北を向いて撮った写真。
十字路を境に、向こうの道幅が狭くなってますよね。手前は拡幅が完了しているけど、奧は戦前の道幅がそのまま残っている。焼失エリアと非焼失エリアの境界が見えるような気がしてきます。
この狭い道を通って十字路を北上して後楽園通りに出ると、東側に特徴のあるビルが見えます。

これがそのビル。きれいに維持されているので一見すると古い建物のようには見えませんが、実は昭和5年(1930年)竣工。しかも木造建築です。

木造3階建て、モルタル壁仕上げ。ちなみに、左側に少し写っている建物(備前焼屋さん)も同じ年に建てられたものです。

昭和初期に流行したスクラッチタイルが外壁を飾っています。
このビルは、現在は「街角ふれあいビル」と称しています。先ほどの境界十字路から歩いて数十秒の場所なので、なおさら貴重に感じます。
出石町には他にも戦前の建物がいくつか残っています。下の建物も同じく昭和5年(1930年)竣工。木造3階建てです。




こちらは後楽園通りと津山往来が交わる交差点(後楽園口)のカドにあるランドマーク的な建物。

具体的な竣工年は不明で「昭和初期」としか伝えられていませんが、この道路のカドが隅切りされたのが昭和5年(1930年)なので、それ以降であることは確かです。おそらく道路整備と同時期に建てられたんじゃないかなと思います。上記の街角ふれあいビル(昭和5年)同様に。

隅切りに合わせて建てられているのが分かります。

昔はこの建物と一対になるようなかたちで、後楽園通りをはさんだ向かい側に、よく似た姿の洋風モルタル建築がありました。つまり後楽園口を演出するような景観が意図的につくられていたのです。
【追記】知人の伏見さん(洋菓子店「ロマラン」店主)から、向かい側にあった洋風モルタル建築の、在りし日の写真をご提供いただきました。

このように同じような隅切り。現在は空き地になってます。

昭和5年の道路竣工記念碑。
なぜこの年に道路整備がされたのかというと、岡山で陸軍特別大演習がおこなわれ、昭和天皇が視察(当時は「統監」と言った)に訪れることになったから。大本営が後楽園に置かれたため、ここ後楽園通りを拡幅し、整備したというわけです。上記の「後楽園口の隅切り演出」も納得できます。
また、それまで木橋だった鶴見橋がコンクリート橋に架け替えられました。それが現在の鶴見橋です。天皇の行幸が一大事だったということが分かりますね。
津山往来をはさんで上掲の建物の向かい側に「旧福岡醤油建物」があります。その増築棟がこちら。昭和11年(1936年)竣工。

下の建物は津山往来沿いにある昭和初期の看板建築。



この「岡」というのは建設当時の家主の苗字から取った一文字なのだそうです。

高い場所から見下ろすと瓦屋根であることが分かります。まさしく看板建築。
すぐそばにあるもう一軒の看板建築と見比べると、あることに気づきます。こちらも昭和初期。


先ほどの看板建築は妻側が道路に面していましたが(妻入り)、こちらは妻側が横を向いている(平入り)ことが分かります。同時期に同じエリアでつくられた看板建築でも、こうした違いがあるんですね。

もとは集会場。当時は下出石町、中出石町、上出石町と分かれていました。
津山往来を北上して上出石町エリアまで行くと、こんな建物があります。三宅製綿所。


路面より低い場所に建ってますよね。なぜでしょうか。実は明治時代までは、津山往来の東側は、このように一段低くなっていたのです。この道を東側を見ながら歩いていると、他にもいくつか、一段低い場所に建っている建物を見つけることができます。つまりその建物は明治時代かそれ以前に建てられたということ。
大正期頃から土地を嵩上げして家を建てるようになったそう。だから路面と同じ高さにある建物は比較的新しいのです。

津山往来をさらに北上すると、西側にこんな長屋建築があります。これも戦前の建物だそうです。趣がありますね。
今回は戦災焼失地の境界の「外」を歩きましたが、次回は「内」を歩こうと思います。
>>戦災焼失地の内と外(2)
【参考文献】
『岡山市出石町の町並と建物』(出石をどねぇんかする会、2010年)
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