2021年11月30日

戦災焼失地の内と外(1)

以前の記事「岡山市の戦災焼失地」に、『岡山市史 戦災復興編』(岡山市史編集委員会編、昭和35年/1960年)に収録されている地図「焼夷弾爆撃に依る焼失状況」を掲載しました。今回はその地図を見ながらまちを歩きます。

※本ブログの画像はすべてクリック(タップ)で拡大できます。

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岡山市中心部で「空襲をまぬがれたまち」として知られているのが「番町(ばんちょう)」と「出石町(いずしちょう)」です。番町には戦前の洋風建築がいくつか残っており、出石町にも戦前の看板建築や明治・大正時代の民家・商家が残っています。

被災図を見ると、出石町は南側の下出石町(当時)まで焼失していることが分かります。

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この被災エリアの境界へ行ってみました。下の矢印の場所です。

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星マークの地点

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矢印の場所の少し南側に立ち、北を向いて撮った写真。

十字路を境に、向こうの道幅が狭くなってますよね。手前は拡幅が完了しているけど、奧は戦前の道幅がそのまま残っている。焼失エリアと非焼失エリアの境界が見えるような気がしてきます。

この狭い道を通って十字路を北上して後楽園通りに出ると、東側に特徴のあるビルが見えます。

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これがそのビル。きれいに維持されているので一見すると古い建物のようには見えませんが、実は昭和5年(1930年)竣工。しかも木造建築です。

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木造3階建て、モルタル壁仕上げ。ちなみに、左側に少し写っている建物(備前焼屋さん)も同じ年に建てられたものです。

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昭和初期に流行したスクラッチタイルが外壁を飾っています。

このビルは、現在は「街角ふれあいビル」と称しています。先ほどの境界十字路から歩いて数十秒の場所なので、なおさら貴重に感じます。

出石町には他にも戦前の建物がいくつか残っています。下の建物も同じく昭和5年(1930年)竣工。木造3階建てです。

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こちらは後楽園通りと津山往来が交わる交差点(後楽園口)のカドにあるランドマーク的な建物。

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具体的な竣工年は不明で「昭和初期」としか伝えられていませんが、この道路のカドが隅切りされたのが昭和5年(1930年)なので、それ以降であることは確かです。おそらく道路整備と同時期に建てられたんじゃないかなと思います。上記の街角ふれあいビル(昭和5年)同様に。

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隅切りに合わせて建てられているのが分かります。

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昔はこの建物と一対になるようなかたちで、後楽園通りをはさんだ向かい側に、よく似た姿の洋風モルタル建築がありました。つまり後楽園口を演出するような景観が意図的につくられていたのです。

【追記】知人の伏見さん(洋菓子店「ロマラン」店主)から、向かい側にあった洋風モルタル建築の、在りし日の写真をご提供いただきました。
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このように同じような隅切り。現在は空き地になってます。

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昭和5年の道路竣工記念碑。

なぜこの年に道路整備がされたのかというと、岡山で陸軍特別大演習がおこなわれ、昭和天皇が視察(当時は「統監」と言った)に訪れることになったから。大本営が後楽園に置かれたため、ここ後楽園通りを拡幅し、整備したというわけです。上記の「後楽園口の隅切り演出」も納得できます。

また、それまで木橋だった鶴見橋がコンクリート橋に架け替えられました。それが現在の鶴見橋です。天皇の行幸が一大事だったということが分かりますね。

津山往来をはさんで上掲の建物の向かい側に「旧福岡醤油建物」があります。その増築棟がこちら。昭和11年(1936年)竣工。

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下の建物は津山往来沿いにある昭和初期の看板建築。

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この「岡」というのは建設当時の家主の苗字から取った一文字なのだそうです。

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高い場所から見下ろすと瓦屋根であることが分かります。まさしく看板建築。

すぐそばにあるもう一軒の看板建築と見比べると、あることに気づきます。こちらも昭和初期。

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先ほどの看板建築は妻側が道路に面していましたが(妻入り)、こちらは妻側が横を向いている(平入り)ことが分かります。同時期に同じエリアでつくられた看板建築でも、こうした違いがあるんですね。

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もとは集会場。当時は下出石町、中出石町、上出石町と分かれていました。

津山往来を北上して上出石町エリアまで行くと、こんな建物があります。三宅製綿所。

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路面より低い場所に建ってますよね。なぜでしょうか。実は明治時代までは、津山往来の東側は、このように一段低くなっていたのです。この道を東側を見ながら歩いていると、他にもいくつか、一段低い場所に建っている建物を見つけることができます。つまりその建物は明治時代かそれ以前に建てられたということ。

大正期頃から土地を嵩上げして家を建てるようになったそう。だから路面と同じ高さにある建物は比較的新しいのです。

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津山往来をさらに北上すると、西側にこんな長屋建築があります。これも戦前の建物だそうです。趣がありますね。

今回は戦災焼失地の境界の「外」を歩きましたが、次回は「内」を歩こうと思います。

>>戦災焼失地の内と外(2)


【参考文献】
『岡山市出石町の町並と建物』(出石をどねぇんかする会、2010年)

【関連記事】
さよなら大正建築



posted by pictist at 18:45| 都市鑑賞

2021年11月18日

シュロとパルメット瓦(福寿会館)

『シュロ2』の表4に日日さん(@___h_i_b_i___ )が撮ったパルメット瓦とシュロの写真が載ってまして。「この組み合わせいいなあ、どこかで出会えないかな」とうらやましく思ってたんですが、私も先日、ついに見ることができました。

どどん。

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ここは福寿会館(旧 安倍和助別邸/広島県福山市)という昭和初期に建てられた建物。昭和20年の福山大空襲でいくつかの棟を焼失しましたが、主な棟は残り、現在は市が管理しています。

パルメット瓦というのは、パルメット文様の瓦のこと。古い洋風住宅の装飾瓦によく使われています。他の場所で撮ったパルメット瓦を3点ご覧ください↓

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パルメットは古代エジプトを起源に持つ装飾文様で、世界中に伝播しています。 パルメット(palmette)はパーム(palm=ヤシ)から派生した名称。ご覧のように扇状で、ヤシの葉や樹形を連想させます(上下逆のパターンもあり)。

だからヤシ×ヤシになるシュロとの組み合わせをぜひ見たかったんです。ヤシヤシ。

福寿会館そのものも「洋館付き和風住宅の豪華版」といった感じでたいへん見ごたえがありますよ。

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posted by pictist at 23:09| 都市鑑賞

2021年11月16日

森林研究所のすてきな展望台

岡山県農林水産総合センター森林研究所(旧 岡山県林業試験場/岡山県勝田郡勝央町、1961年竣工)の展望台を見てきました。

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展望台から見るのではなく、展望台を見る。

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すてきすぎん?

竣工当時の写真が『岡山の建築 1950-64』(岡山県建築士会、1964年)という本に載ってるんですが、

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今は木がいっぱい生えてて、この角度から見ることはできませんでした。というかまわりに木が多すぎる! 展望台の上に登ってみたんですが、樹木に囲まれて見通しは良くなかったです。

いや、言わないよ? 森林研究所に向かって「木がじゃま」だなんてぜったい言わないよ? 言いませんとも……うう…

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この展望台、森林研究所の公式サイトに載ってないんですよね。林業試験場の頃には載ってたみたいなんですが、リンクが切れてて。もったいないです。

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ところで、森林研究所ではその名の通りさまざまな樹木を研究してて、広大な山林が丸ごと敷地になってます。いろんな木が植えられてるんですが、その景色を「どこからどこまでが人為的なもので、もともとこの山に生えてた木はどれなんだろう?」と思いながら見渡して、なんだか不思議な気分になりました。

もちろん二次林も人の手が入っているという意味では人工的な風景なんですが。

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私は樹木に詳しくないのでそれほど明確には分かりませんが、見る人が見ればずいぶん「不自然な自然」に感じるでしょうね。




posted by pictist at 21:44| 都市鑑賞

2021年11月13日

笠岡の立体交差

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岡山県笠岡市にある稲富稲荷神社の参道は、珍しい様相を呈している。神社は古城山という山の中腹にあるのだが、ふもとから山へ続く道が鉄道をまたいでいるのだ。跨線橋が参道の一部になっている。

しかもその跨線橋の上を、県道の高架が覆いかぶさるようにまたいでいる。

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最初に存在していたのはもちろん神社と参道だ。神社じたいは江戸時代以前からあるそうだが、参道の入口にある燈籠や石橋、鳥居などの石造物、備前焼でできた狛犬などは江戸時代のもの。

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1891年(明治24年)、山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が笠岡駅まで延伸され、古城山のふもとに鉄道が敷設された。その際に山裾を削り、跨線橋を設けたのだろう。



航空写真を見ると、このルートに鉄道を敷いたわけが分かる。山と山のわずかな隙間を縫うしかなかったのだ。

さらに平成時代、1993年に岡山県道60号倉敷笠岡線が認定される。高架がつくられた年は調べてないが、90年代の後半あたりだろう。1994年の航空写真には写っておらず、2002年の航空写真には写っている。

こうして江戸時代の参道、明治時代の鉄道、平成時代の高架(昭和時代のアスファルト道路を入れてもいい)が一堂に会する場となったのである。

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写真家の大山顕は、東京の日本橋を「各時代の交通インフラが地層のように表れている得がたい地点」だと言う。(※1)

15世紀以降に整備された日本橋川、明治時代につくられた日本橋(19代目)、昭和時代につくられた首都高が、この場所に積み重なっている。さらに地下には銀座線も通っている。

大山は「日本橋の風景は首都高があるからこそすばらしい」と述べ、「悪い景観」論に異を唱える。交通・物流の歴史が集積した「土木のミルフィーユ」である日本橋の景観は、だからこそ見ごたえがあるのだと。

この笠岡の立体交差も、そうした視点を導入して見ると「各時代のインフラが交差している地点」だと分かる。しかもただの交差ではない。「江戸時代」の下を「明治時代」が貫き、その接点は跨線橋という姿で融合している。ミルフィーユ以外の食べものに喩えたくなるところだ(なんだろう)。

さらにその上には、県道の高架という「平成時代」が乗っている。

これも大山の言を借りるなら、ここには「異なるモードの交通の衝突」があり、先行利用と後行利用のスリリングな「つばぜり合い」がある。私もそうした歴史の集積地として「笠岡の立体交差」を鑑賞したい。

踏み固められた土。御影石の階段。煉瓦の基礎。アスファルトの道路。鉄道。擁壁。コンクリートと鋼の高架。ここは古今の土木がぶつかり合う、希有なスポットだ。

※1 写真集『立体交差 ジャンクション』所収「立体交差論」(本の雑誌社、2019年)

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posted by pictist at 20:43| 都市鑑賞

2021年11月12日

福山市体育館の記録

福山市体育館(広島県福山市草戸町、1968年竣工)の記録です。同館は2020年に閉館しました。

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建物の四つの隅に円筒形(12角形かな)の塔が配されているのが特徴的でした。

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はつり加工で表情を。

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深海とか宇宙生物とか、そんな想像をさせるランプ。

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いい雰囲気のコンクリート建築でした。






posted by pictist at 23:49| 都市鑑賞

2021年11月10日

岡山市の戦災焼失地

『岡山市史 戦災復興編』(岡山市史編集委員会編、昭和35年/1960年)に収録されている地図「焼夷弾爆撃に依る焼失状況」をここに掲載します。

これは、市史が発行された当時の岡山市の地図に、空襲被災エリアを重ねたものです。

自治体が発行した書籍であること、刊行から60年以上経過して入手が困難になっていること、現在ウェブ上で閲覧するすべがないこと、そして公益に資する内容であることを考慮し、掲載することにしました。

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全体(拡大できます)

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右上部(拡大できます)

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右下部(拡大できます)

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左上部(拡大できます)

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左下部(拡大できます)

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『岡山市史 戦災復興編』(岡山市史編集委員会編、昭和35年/1960年)

このような詳細な記録が残っているのは、戦後まもない頃に被災状況を調査・記録した人がいたからです。岡山市立中央図書館の「岡山空襲の被害はどのようにして把握されたか」にその経緯が詳しく書かれています。

以下に要点をまとめます。

●昭和21年、郷土史家の岡長平が、岡山市長・橋本富三郎に「今のうちに精密な戦災の被害調査をしておくべき」と進言した。

●橋本富三郎はこれに賛同し、予算を確保。

●岡山市は、調査と記録を民俗学研究者の岡秀俊に依頼した。岡秀俊を推薦したのも岡長平。岡秀俊はこれを引き受け、昭和21年10月から翌22年3月まで5ヶ月にわたって戦災の記録を採集した。

●しかしこの調査記録は出版されず、未成稿のまま岡山市立図書館の書庫に納められた。

●出版はされなかったが、当時の図書館長だった吉岡三平がこの調査記録を編集し、『岡山市町別戦災調査資料』と題した一冊の本にまとめ、館に保管した。

●昭和30年より岡山市が市史の編纂を開始。昭和33年に『概観岡山市史』が刊行されたのを皮切りに、昭和43年までに全10巻が刊行された。このうちの一巻が「戦災復興編」。本書には、岡秀俊による昭和21〜22年の戦災調査の成果が随所に取り入れられた。

というような経緯だったそうです。この「焼夷弾爆撃に依る焼失状況」にも、当然その成果が反映されているはず。

まだ暮らしが不安定だった時期に「今、記録しておかなければ」と考え、実行した人たちがいたことを覚えておきたいと思います。

次回の記事では、この地図を見ながら岡山市中心部を歩きます。

>>戦災焼失地の内と外(1)
>>戦災焼失地の内と外(2)
>>戦災焼失地の内と外(3)





posted by pictist at 02:19| 都市鑑賞

2021年11月08日

型板ガラス「菊」の謎(“半”解決篇)

※最下段に【追記】を書きました(2022.2.8)

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以前、【型板ガラス「菊」の謎】という記事を書きました。「菊」と呼ばれている型板ガラスがどこのメーカーのものなのか分からない、という内容です。「菊」という商品名が正しいのかさえ、定かではない。製造年も不明。型板ガラスメーカー各社の社史にも載っていない。『産業技術史資料データベース』にも載っていない。他の型板ガラスの情報はほぼ判明してるんですが、「菊」の情報だけがぽっかりと欠落してるんです。

こんなことを調べてなにになるのか。なんにもならないわけですが、どうしても気になったので、まずはネットで見つけたガラス屋さんに聞いてみることにしました。石川県金沢市でガラス店を営んでいる前田ガラス店さんです。

購入の相談でもない個人的な質問メールをお送りすることに大変恐縮しつつだったのですが、とても丁寧なお答えをいただきました。前田ガラス店さん、ありがとうございました。

まず、製造メーカーは日本板硝子であると。ただ、製造年は「昭和40年代のオイルショック前後だったと記憶している」が、具体的な年は分からないとのことでした。また、流通期間は短かったとの情報をいただきました。

これはもう日本板硝子さんに聞くしかない。というわけでメールで質問しました。こちらも大変丁寧なお答えをいただきました。日本板硝子さん、ありがとうございました。

日本板硝子さんによると、型板ガラスの商品名は、ひらがなで「きく」と記録されているとのこと。ただ、正確な発売時期の記録が残っておらず、「昭和44〜46年頃に販売していた製品ではないかと思われます」とのご回答でした。

第1次オイルショックが昭和48年なので、前田ガラス店さんの記憶と少しだけずれますが、おおむね合致していると考えてよいかと思います。意外なことに「新柄戦争」の時代より少し後なんですね。なんとなくですが、柄の雰囲気からもっと昔の商品なのかと思っていました。

ちなみに日本板硝子の商品で言うと、「わかば」が昭和42年11月発売、「ささ」が昭和43年8月発売。「きく」はこのあとくらいに出たということになります。

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日本板硝子「わかば」

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日本板硝子「ささ」

そしてさらに、驚きの情報をいただきました。「『きく』は旭硝子(現在のAGC)さんでも同時期に販売されていたようです」とのこと。そうだったのか!

じゃあ以前【型板ガラス「しきし」の謎】で書いたのと同じように、もしかして「きく」にも微妙にデザインの異なる2種類があるっていうこと?

旭硝子さんにも聞いてみるか……とも思いましたが、ひとまず調査はここでいったん終了とします。

【まとめ】
・型板ガラス「きく」の製造メーカーは日本板硝子
・製造年は昭和44年頃(1969年頃)※推測
・流通期間は短かった
・同時期に旭硝子も「きく」を販売していた

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2種類あるかもしれない「きく」。謎を調べた結果、目の前のこれが日本板硝子製か旭硝子製か断言できないという、さらなる深みにはまってしまった。

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今も町を歩けばまれに目にすることがあります。

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友人の実家にあった「きく」。現存せず。

【追記】2022.2.8
上の記事を書いたあと、旭硝子さん(現AGC)にも問い合わせてみました。ご回答いただきました。その結果、分かったこと。

・旭硝子も「きく」を製造・販売していた。
・「きく」の正確な販売年は不明だが、1960年代後半〜1975年頃に流通していた。

というわけで再度まとめると、
・「きく」は日本板硝子と旭硝子が販売していた。
・商品名はどちらもひらがなで「きく」。

です。
つまり菊模様の型板ガラスには2種類あることが分かりました。




posted by pictist at 19:14| 都市鑑賞