


いかにも古そう。

ここは今は塞がれてるけど、おそらく通用門だったのでしょう。

こうした意匠からも、戦前のものであることが推測できます。

この場所にはもともと陸軍第17師団長官舎がありました。第17師団ができた明治40年(1907年)に陸軍省がこのあたりの土地の買収・所有権移転をおこなったとのことなので、その頃に現在の敷地が造成されたのでしょう。花崗岩(万成石)を使った基礎もその時期のものかもしれません。

大正14年(1925年)に第17師団が廃止されると、官舎は歩兵第33旅団長官舎として使用されます。その後も昭和20年(1945年)の終戦まで陸軍の官舎として使われました。幅を最大に取ると、コンクリート塀は明治40年(1907年)から昭和20年(1945年)の間のどこかでつくられたことになります。
先ほどの通用門の写真をもう一度見てください。

これを見て思いだしたのが、旭公民館の2キロほど南にある田町橋(岡山市北区柳町/田町/中央町)です。



長方形3つを配したこのアールデコ調の意匠に、なんとなく同時代っぽさを感じますよね。田町橋の竣工は昭和5年(1930年)。旭公民館の塀も、およそそのくらいの時代の竣工と見てよいのではないかと思います。
昭和5年と言えば、この年の11月に岡山で陸軍特別大演習がおこなわれ、昭和天皇が視察に訪れています(当時は「統監」と言った)。これは当時の人々にとっては大イベントで、記念絵葉書が販売されたりもしています。
また、天皇の行幸ルートについても相当な配慮がされたようで、それまで木製だった鶴見橋がコンクリート製に架け替えられたり(現在の鶴見橋がこれ)、道路の拡幅や隅切りまでおこなわれています。
天皇がこの司令長官舎に立ち寄ったのかどうかまでは調べてませんが、陸軍関連施設をこのタイミングで立派なものに繕おうとした可能性は十分にあると思います。
長官舎は戦後は進駐軍に接収され、米軍司令官の住居に。昭和25年(1950年)に接収解除されたのち、解体されます。そして昭和35年(1960年)、この場所に国家公務員共済組合連合会が宿泊施設「広瀬荘」を新築。その建物が現在の旭公民館です(1997年より)。




先日、公民館の中を見学させてもらいました。






もと宿泊施設だっただけあって、公民館とは思えない旅情が館内にただよってました。玄関前に車回しがあることも含めて、こんな公民館は珍しいと思います。
オールド・コンクリート塀の話に戻りますが、岡山市内にはもう一件、見ごたえのある戦前のコンクリート塀があります。


岡山大学津島キャンパス・教育学部エリアの南東隅にあるコンクリート塀。けっこうな高さがあり、異彩を放っています。大きくカーブしてるところがすごくいい。「ぐりん庇」もそうだけど、私はコンクリートが描く曲線にグッとくるんです。
岡山大学津島キャンパスのある敷地は、戦前まで陸軍の駐屯地でした。岡山大学埋蔵文化財調査研究センターの報告書によると、この塀の内側には資材の荷解き場があり、それを隠すための目隠し塀だったらしいとのこと。同報告書では昭和9年(1934年)前後の構築ではないかと推測されています。
ただ、私はこの説には少し疑問を持っています。別の資料によると、この場所には歩兵第10連隊の弾薬庫があったそうです。そしてその弾薬庫は、高さが7メートルあったというのです。だからこの塀は、弾薬庫を防護し、かつ安全を図るためにつくられたものなのではないでしょうか。単に「資材の荷解き場」を遮蔽するだけなら、こんなに高い塀は必要ないはずです。
参考文献/「岡山大学埋蔵文化財調査研究センター紀要2005」(2007年)
『福が居る街 今昔物語』(福居今昔の会、2001年)