
三勲小学校(さんくんしょうがっこう/岡山市中区徳吉町)の北側を流れる御成川(おなりがわ)に、「地蔵用水の取入口(仮称)」という樋門がある。なぜ仮称なのかというと、もとの名前が分からないからだ。
この取入口の北面に、「銘板がはめ込まれていたのではないか」と思わせる凹みがある。

北面

いかにも銘板があったかのような凹み。
私は、以前は「ここにはもともと銘板がはめ込まれており、それが戦時の金属供出で失われたのではないか」と想像していた。しかし今はそう考えていない。ここには「最初から銘板がなかった」と考えている。空虚な凹みだけがつくられたのだろう、と。なぜか。
その話の前に、まずはこの「地蔵用水の取入口(仮称)」について説明したい。
岡山県が2005年に作成した
『岡山県近代化遺産総合調査報告書』(以下『報告書』と記す)では「名称も完成年も不明」とされ、「地蔵用水の取入口」とだけ記されている(農林業/国富樋門の項目)。というわけで私たちも「地蔵用水の取入口」と呼ぶほかない。

この樋門に通じるコンクリート製の水路は、御成川の上を横断している。掛樋(かけひ)だ。この掛樋には、とある水路の分流が流れ込んでいる。この水路の名称は不明なので、仮に原尾島水路と呼ぶことにする。岡山市中区原尾島(はらおじま)方面から流れてきている水路だからだ(上掲マップの☆印参照)。
※ただし、上記『報告書』はこの水路についてはまったく触れておらず、別の説明がされている。それについては後述する。
現在、「地蔵用水の取入口」は使用されていない。掛樋の壁が欠けているが、これはおそらく取入口が使用されなくなったあと、あえて壊したのだろう。
現在の様子だけを見ると混乱するかもしれないが、かつて御成川の川底は今より低く、水路と御成川がしっかり立体交差していたらしい(『おかやま街歩きノオト』著者・福田忍さんの近隣住民への聞き取りによる)。
だんだん土砂が堆積して川底が高くなり、現在のような姿になったのだ(かつての「立体交差ぶり」を見てみたかった)。
ちなみに『報告書』には「(地蔵用水の取入口は)1981年(昭和56年)に不要になり、長年使用されていない」という記述があるが、これはおそらく「水を取り入れていない」という意味だろう。樋門じたいは現在も管理されているようだ(取入口アーチの上に設置されているハンドルを見ると1995年/平成7年製だった)。

いずれにしても、掛樋の様子から、ほんらいの形で使われていないことは間違いない。今は北側から流れ込んできた原尾島水路(仮称)の分水が、掛樋の欠け目から御成川に流れ出すような状態になっている。

『岡山県近代化遺産総合調査報告書』の当該ページ
さて、名称の件である。
『報告書』はこの樋門(取入口)の完成年を「不明」としているが、おそらく1938年(昭和13年)につくられたのだろうと推測できる。なぜなら樋門と一体的に造成されている三勲小学校の石積みが完成したのが、この年だからだ。
三勲小学校の創立は1923年(大正12年)だが、1938年(昭和13年)に校地を造成しなおした(西側の敷地を縮小し、北側に敷地を拡張した)。その拡張した校地の北端がこの石積みだ。
『三勲小学校創立70年記念誌』に「御成川の南を埋め立て校舎北に運動場を新設す」という記述が見えるので、「地蔵用水の取入口」がつくられたのも同時期と考えてまず間違いない(古地図を見ると御成川を横断する水路じたいはそれ以前からあったようだが)。
また、『報告書』に「デザインは昭和13年の半役汐留樋門に通じる」という記述があるように、造形からも同時代のものだろうと推測できる。
造成されたのは南側なので、北面についている銘板の凹みが同時につくられたと断言することはできないが、凹みに塗られている赤いモルタルが南側に使われているものと同じに見えるし、またコンクリートそのものの風合いが似ていることから同時と考えていいだろう。
1938年(昭和13年)とは、どんな年だったのか。
この前年、1937年(昭和12年)に日中戦争が始まっている。同年11月には商工省から
「銅使用制限規則」が公布される。これにより建築物への銅使用が原則禁止となった。さらに翌1938年(昭和13年)4月には
「銑鉄鋳物制限令」が公布され、看板、門柱、欄干など各種鉄製品の製造が禁止される。
そんな時代にちょうど完成してしまったのが、この樋門なのだ。『三勲小学校創立70年記念誌』によると、校地の拡張工事は1938年(昭和13年)6月に始まり10月に竣工している。冒頭に書いた文章を繰り返そう。私は以前「ここにはもともと銘板がはめ込まれており、それが戦時の金属供出で失われたのではないか」と考えていた。しかし完成年を知ると、別の考えが浮かぶ。
工事は「銅使用制限規則」公布の7ヶ月後、「銑鉄鋳物制限令」公布の2ヶ月後に着工している。つまり、最初から銘板はなかったのではないか。設計段階では銘板をつける予定だったが、それが叶わなくなり、凹みだけがつくられたのではないだろうか。いつか銘板がはめ込まれる日が来ることを願いながら。
あくまでも推測であり、真相は分からない。はたして、どうだろう。
※話を分かりやすくするために記事のタイトルを「樋門」としたが、凹みは樋門の反対側にあるので、名称があるとすれば掛樋そのものを指す名前かもしれない。たとえば「国富掛樋」のような。

昭和9年発行の「最新岡山市街地図」。この4年後に三勲小学校の校地改造がおこなわれ、「地蔵用水の取入口」および新しい掛樋がおそらく同時につくられる。
校地改造がおこなわれた理由は、国道が校地を貫くかたちで通ることになったため。

「第六高等学校」は現在の岡山朝日高校。
以下余談。
『岡山県近代化遺産総合調査報告書』の国富樋門の項目の説明文は、全体的にちょっと分かりにくい。
まず今回取り上げた「地蔵用水の取入口」だが、最初に読んだとき、私はこの表現に混乱してしまった。地蔵用水というのは、祇園用水のことだ。この取入口から流れこんだ水は、三勲小学校の横を通って南下し、祇園用水(地蔵用水)に合流する。だから「地蔵用水の取入口」という言い方をしたのだろう。
ただ、この言い方では地蔵用水「を」取り入れるための口という解釈もできるので、ややこしい。『報告書』は「(祇園用水は)御成川より南では地蔵用水と呼ばれている」と書いているが、これは正確ではない。実際には御成川より北側においても地蔵用水(地蔵川)と呼ばれている。だから「地蔵用水の取入口」という表現では分かりにくいのだ。
この「地蔵用水の取入口」には、原尾島水路(仮称)の分流が流れ込んでいる(いた)。そして少しややこしいが、御成川の北側で、原尾島水路(仮称)の分流に祇園用水(地蔵用水)の分水が合流する形になっていた。それが『報告書』に書かれている、羅漢樋から分かれる二手のうちの一方のルートだ(文章だけだとほとんど意味不明だと思うので下記マップをご参照ください)。
つまり「地蔵用水の取入口」には、「原尾島水路(仮称)の分水と祇園用水(地蔵用水)の分水が混ざった水」が流れ込んでいたのだ。
だが『報告書』では単に「御成川に排水される水」としか書かれておらず、その「水」の正体について説明がされていない。限られた文字数の中、複雑な説明をすることができず、大づかみな言い方になってしまったのだろう。
また、『報告書』の当該箇所に「羅漢樋で分流された水を御成川に排水するのが国富樋門」とあるが、これも正確ではない。
前述のように、羅漢樋で分流された祇園用水の水は、原尾島水路(仮称)の分流に排水される。そしてその「原尾島水路(仮称)の分水+祇園用水の分水」を御成川に排水するのが国富樋門なのである。間違いとは言えないが、正確な説明とも言えない。
【御成川の南北エリアにおける祇園用水の流れついて】以下は今回の本題ではありませんが、理解を深めていただくための補足情報として記します。また、岡山の河川と農業用水の複雑さを表す例として面白いと思うので、興味のある方はマップとつきあわせて吟味してみてください。
マップ上の☆マークが主要なポイントです。各ラインおよび☆をクリックすると、名称と説明を読むことができます。「水路A」というのが今回の記事で書いた原尾島水路(仮称)のことです。
※原尾島水路(仮称)の名前をご存じの方がいたら教えてください。名もなき農業用水なのでしょうか……?
北から流れてきた祇園用水(藍色のライン)は、羅漢樋で二手に分かれる。一方はそのまま南下し、岡山朝日高校の敷地の中を通り、御成川(操山に源を発して旭川に注ぐ自然河川)の「下をくぐって」南西へ流れる。
羅漢樋から分流したもう一方(薄紫のライン)は西へ流れ、原尾島水路(仮称)の分流(青いライン)に合流(排水)する。※現在は羅漢樋から西への分流は流れていない。
その原尾島水路(仮称)の分流は、御成川の手前で二手に分かれ、一方は国富樋門から御成川へ排水される。もう一方は御成川の「上を通り」、「地蔵用水の取入口」から南へ流れる。そして三勲小学校の横を流れていき、小学校の南東で祇園用水(地蔵用水/地蔵川)に合流する。
つまり羅漢樋で分流された祇園用水の一部が、(原尾島水路の水と混ざりつつ)ここで再び祇園用水に合流することになっていた。
「国富樋門から御成川へ排水する」のか「掛樋で御成川を渡らせて用水に合流させる」のかは、水量の増減や農期によって調節していたのだろうと思われる。
この一連の用水の流れは、江戸時代にはすでにできていたことが古地図によって分かっている。農業用水は自然河川にぶつかっても、それを越えて先へ流れ続けなくてはならない。そのためになされた先人の工夫を見るのは面白い。

花崗岩でつくられた国富樋門(1930年/昭和5年竣工)。写真は東(御成川の上流)を向いた眺めで、右手が三勲小学校。この数十メートル向こうに「地蔵用水の取入口」がある。

御成川の下流(西)を向いた眺め。左手が三勲小学校。石積みが道路側よりだいぶ高いが、これは校地が高いのではなく、一種の堤防として、石積みで壁をつくっているためだ。

祇園用水を二手に分けていた羅漢樋(の跡)。かつては西(向かって右)へ向かう流れと、南(正面)への流れに分かれていたが、現在は南への水路だけになっている。正面に見えるのが岡山朝日高校。

奧のほうで水面が明るくなっているのが分かる。高校の敷地内だ。

岡山朝日高校の敷地内から北を見た様子。祇園用水が道路の下をくぐって流れている。

御成町あたりの御成川。右側が岡山朝日高校。

岡山朝日高校の敷地を抜けてきた祇園用水が、この下をくぐっている。
【参考文献】
『おかやま街歩きノオト 第4号《改訂版》 旧・第六高等学校周辺を歩く』
『岡山市立三勲小学校創立七十周年記念誌』