

上之町ビルの北側の階段室。防火壁が出っぱっている。
都市鑑賞会「内側から見る岡山」で見学した上之町ビル(岡山市北区表町一丁目、1961年/昭和36年竣工)は「防火建築帯」として建てられた。
防火建築帯とは、火災の延焼抑止を目的としてつくられた帯状の耐火建築物のことだ。防火建築帯の造成は、戦後日本の都市開発における重要なプロジェクトの一つだった。
戦後まもなく「都市不燃化運動」が起こる。日本のまちは燃えやすかった。火災が発生すればあっというまに延焼し、区画一帯がすべて焼けてしまう。「火に強い都市をつくらねば」と人々が考えるのは当然のことだっただろう。空襲を経験すればなおさらである。
そうした背景の中、1952年(昭和27年)に耐火建築促進法が施行される。これは国と自治体の補助金によって防火建築帯の造成を促す法律だった。以降、同法が廃止される1961年(昭和36年)までの9年間に、全国84都市で総延長38.8kmの防火建築帯が造成されている。上之町ビルもその一つだ。
このビルは商店街と一体になっており、また他の建物が隣接して密集しているため、今ひとつ全体像がつかみづらい。下記はGoogle Earthからキャプチャした画像だ。

東を向いた画像。手前を横切っている棒状がアーケードの屋根。それに沿って上之町ビルが建っている。「帯」になっているのが分かるだろうか。

逆向き、西を向いた画像。

上の画像から上之町ビルだけを切り抜いたもの。下駄の歯のように2つの階段・エレベーター棟が突き出している。
余談だが、この表町商店街再開発プロジェクトの基本計画(マスタープラン)をつくった日本建築学会「再開発委員会」のメンバーの中には、若き日の磯崎新もいた。
1961年(昭和36年)、耐火建築促進法は廃止されるが、同時に防災建築街区造成法が制定され、法の趣旨が発展的に継承される。さらにその後、1969年(昭和44年)の都市再開発法へと受け継がれていく。
つまり耐火建築促進法は、日本の都市開発法のルーツと言える。そして防火建築帯は、そのルーツを今に伝える証言者なのだ。

南端を、オランダ通りから北向きで見上げたところ。

南端を、オランダ通りから南向きで見たところ。下に見えている低いビルや、右端に見えているビルは別の建物だ。把握しづらい。

商店街から見た上之町ビル。アーケードがあるため、ここに5階建てのビルがあるようには見えないだろう。左下、自販機の横にビルへの入口(北口)がある。
実は、「上之町ビル」はこの建物だけではない。このビルは「上之町3号ビル」というのが正式名称で、他にも上之町5号ビル、上之町6号ビル、上之町7号ビル、上之町8号ビルがある。上之町商店街を形成する不燃化ビルのほとんどは「上之町ビル」なのだ。しかし今では、上之町ビルと言えばこの3号ビルを指すようになっている。

2階のドアにある「3号ビル」のプレート。

これは上之町3号ビルの竣工時の写真。まだアーケードがないので、商店街側から見上げるように撮影している。当初はこんなふうに見えていたのだ。(『岡山の建築 1950-64』より)

こちらは『岡山市制要覧1962年版』に掲載されている上之町ビル。「防災建築街」というキャプションがついていた。
今回はここまで。次回はビルの中をご紹介します。中がまた把握しづらいんだよね……
【参考文献】
『日本の都市再開発史』(社団法人全国市街地再開発協会、1991年)
『岡山の建築 1950-64』(岡山県建築士会、1964年)
posted by pictist at 13:00|
都市鑑賞