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シュロは在来種であり、古くから鑑賞用の庭木として定着していた。それが明治時代に入って「洋風化」していく。2010年、「シュロ景」(『生活考察』Vol.2)に書いたように、私はそれを南国趣味の影響によるものだろうと考えていた。シュロがヤシの木に似ているから、南国(南洋)=楽園のイメージを重ねたのだろうと。
その推測は今でも半分は正しいと思っているが、その後、さらに別の考えを持つに到った。そもそもなぜ、日本人は洋風住宅にシュロを植え始めたのだろうか。考えてみると、南国風と西洋風はイコールではない。たしかにシュロは、枕草子の時代から「異国風」だと思われ続けてきた変わった木ではある。それにしてもなぜ、シュロが選ばれたのか。
私はイギリス人建築家、ジョサイア・コンドルがそのきっかけをつくったのではないかと思っている。
コンドルが設計した岩崎久弥 茅町本邸(旧岩崎邸庭園洋館、1896年/明治29年)には、現在もシュロが聳え立っている。竣工当時から植えられていたことを完全に証明するのは難しいが、1931年(昭和6年)に出版された書籍の掲載写真にははっきりと写っている。
また、これは現存しないが、同じくコンドルが設計した岩崎弥之助 深川邸洋館(1889年/明治22年)にも、写真でシュロが確認できる。


上/岩崎久弥 茅町本邸(旧岩崎邸庭園洋館、1896年/明治29年竣工)
下/岩崎弥之助 深川邸洋館(1889年/明治22年竣工)
※2点とも『コンドル博士遺作集』(1931年/昭和6年)より。撮影年は不明だが、自然に考えるなら竣工時に撮影したものだろう。
さらに遡ると、あの鹿鳴館(1883年/明治16年)にもシュロが植えられていた。これもコンドルの設計である。いずれも庭の設計者は記録に残っていないが、コンドルは建築だけでなく庭園の研究もしていたので、彼が植栽の内容を指示した可能性は十分にある。
>>現在の旧岩崎邸庭園洋館の写真はこちら
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ジョサイア・コンドルは1877年(明治10年)に来日したお雇い外国人で、日本近代建築の父と称される。工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)で教鞭をとり、数々の日本人建築家を育成した。
彼こそが、日本で「洋風住宅にシュロ」のきっかけをつくった人物なのではないだろうか。彼の影響で洋風とシュロの組み合わせが流行り始めたのではないか。私はそう推測している。
「シュロ景」でも紹介したように、正岡子規が1910年(明治34年)に「村落に洋館ありて椶櫚の花」という俳句をつくっている。「洋館にシュロ」が新しい風景として出現し、だんだん見慣れたものになってきた時期だったのだろう。
その後、大正期から昭和初期にかけて「洋館付き和風住宅(文化住宅)」が流行する。中流層の人々が「洋館」に憧れて建てたものだ。ここにもよくシュロが植えられた。洋館にシュロが植えられていたから、洋館付き和風住宅にもシュロを植えたのだろう。
その憧れは富裕層への憧れでもあった。シュロは洋風のイメージをまといながら、同時に「裕福さ」のアイコンにもなっていたはずだ。
>>昭和初期の洋館付き和風住宅(文化住宅)を再現した「サツキとメイの家」
戦後、高度成長期の戸建住宅に続々とシュロが植えられたのは、「シュロ景」にも書いたように南国ブームの影響もあったとは思うが、同時にシュロが当時、ある種のステイタスを感じさせる樹木だったからではないだろうか。明治以降、脈々と継承されてきた「上流のイメージ」が残っていたから、シュロは庶民の人気を得たのだ。
今のところはそのように考えている。
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ジョサイア・コンドルはなぜ鹿鳴館や岩崎邸にシュロを植えたのか。理由は大きく二つあると考える。一つは彼が「19世紀のイギリス人」だったことだ。ヨーロッパでは当時、オリエンタリズムが流行していた。オリエントとはヨーロッパから見た「東方」全般を意味するが、特に中近東やインドを指すことが多かった。そしてヤシ科の木は、オリエンタリズムの要素の中でもポピュラーな記号の一つだった。

『カイロの街並み』(プロスペル・マリヤ、19世紀前半)
フランス人画家によるオリエンタリズム絵画の例。ナツメヤシがシンボリックに描かれている。
ジョサイア・コンドルは1852年、ロンドンに生まれた。その3年前、1849年にはロンドン南西部にある王立植物園「キューガーデン」内に、巨大温室「パームハウス」が完成している。パームとはヤシ類のことだ。ここでは「東方」から集められた多種多様な熱帯植物を鑑賞することができた。パームハウスは大きな人気を博し、1851年には32万人超の入園者があったという。
この頃から、イギリスの上流階級の間でヤシの温室栽培が盛んになる。オリエンタリズムの流行もその要因だが、ヤシを収容できるほどの大型温室は、経済的な余裕を誇示するステイタス・シンボルでもあった(※1)。つまり当時のイギリスにおいて、ヤシの木は高級でおしゃれなアイテムだったのだ。ジョサイア・コンドルが生まれたのはそんな時代だった。
コンドルは24歳で来日し、大学で建築を教える傍ら、明治政府の要請で様々な建物を設計する。彼は当時のイギリスで主流だったヴィクトリアン・ゴシックをベースにしながら、イスラム風を折衷した建築を試みた。「西洋建築そのもの」を期待していた政府は、途中でそれに気づき苦言を呈したこともあったらしい。
例えば鹿鳴館はフランスのルネッサンス系スタイルをベースにしているが、イスラム様式の装飾が施されており、ベランダの柱頭にはヤシの葉のキャピタル(柱頭飾り)が取り付けられていた。そう、ヤシの葉である。
政府との契約が終了したのち、コンドルは岩崎家のパトロネージによって設計事務所を開業し、数多くの邸宅建築を手がけるようになる。岩崎弥之助 深川邸洋館は、コンドルによる最初の邸宅建築だ。全体的にはエリザベス様式だが、塔屋の一つがイスラム風の玉葱形ドームになっている。まさにこの塔屋の下にシュロが植えられている。

岩崎久弥 茅町本邸(旧岩崎邸庭園洋館)はジャコビアン様式を基調に、ルネサンスやイスラム風などいくつかの様式を折衷している。
このような作風が、コンドル自身がシュロを選んだと推測する二つめの理由である。彼はおそらく、イスラム風のオリエンタルな要素と、日本の風土の接点としてヤシ科の木であるシュロを選んだ。
逆に、オリエンタルなテイストを持ち込んでいないその他のコンドル建築には、シュロは植えられていない。このように、建築の様式とシュロの組み合わせに明確な意図を感じられる点が、コンドル起源説の最大の根拠である。彼にはシュロを植える理由があった。
日本人はそうしたヨーロッパ側からの目線を共有していないにも関わらず、なぜかこの演出を好んで受け入れた。もともとシュロに異国っぽさを感じていたからだろう。
こうしてシュロは、古くからある寺社の境内にも、新しい洋風建築の庭にも似合ってしまうという二重性を持ち始めることになる。
さらにその後、後者のイメージ(洋風)の中にもう一段階、二重性が宿るようになる。それは「海」と「砂漠」だ。この真逆とも言える二つのイメージがシュロの中に同居している。私たちはシュロを見て海を思い浮かべることもあるし、砂漠を思い浮かべることもある。前者は南洋・島・砂浜のイメージであり、後者はアラブ・隊商・オアシスのイメージだ。
コンドルがシュロに託そうとしたイメージは後者だが、今は前者が優勢かもしれない。いずれにしても、シュロは常に「見立て」の中に立っている。この不思議な樹木を、私は今後も見つめ続けるだろう。
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「洋風住宅にシュロ」ジョサイア・コンドル起源説。以上はあくまでも推測だが、状況証拠はある程度、提示できたのではないかと思う。実は今年2020年は、コンドルの没後100年にあたる。彼は日本文化によく親しみ、日本で家族をつくり、日本に骨を埋めた。東京・護国寺の墓所に眠っている。
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※1 こうした嗜好は当然ながら植民地主義に支えられていた。イギリスの植民地のほとんどは熱帯地域だった。ヤシの木はその象徴でもある。
参考文献:
『ジョサイア・コンドル』(建築画報社、2009年)
『装飾デザインを読みとく30のストーリー』(鶴岡真弓、日本ヴォーグ社、2018年)
「英国の温室の歴史と椰子のイメージ」(新妻昭夫、『園芸文化』2004年6月)