2020年06月23日

「洋風住宅にシュロ」ジョサイア・コンドル起源説

10年前に書いた「シュロ景」の続き、いわば「シュロ景2」です。



シュロは在来種であり、古くから鑑賞用の庭木として定着していた。それが明治時代に入って「洋風化」していく。2010年、「シュロ景」(『生活考察』Vol.2)に書いたように、私はそれを南国趣味の影響によるものだろうと考えていた。シュロがヤシの木に似ているから、南国(南洋)=楽園のイメージを重ねたのだろうと。

その推測は今でも半分は正しいと思っているが、その後、さらに別の考えを持つに到った。そもそもなぜ、日本人は洋風住宅にシュロを植え始めたのだろうか。考えてみると、南国風と西洋風はイコールではない。たしかにシュロは、枕草子の時代から「異国風」だと思われ続けてきた変わった木ではある。それにしてもなぜ、シュロが選ばれたのか。

私はイギリス人建築家、ジョサイア・コンドルがそのきっかけをつくったのではないかと思っている。

コンドルが設計した岩崎久弥 茅町本邸(旧岩崎邸庭園洋館、1896年/明治29年)には、現在もシュロが聳え立っている。竣工当時から植えられていたことを完全に証明するのは難しいが、1931年(昭和6年)に出版された書籍の掲載写真にははっきりと写っている。

また、これは現存しないが、同じくコンドルが設計した岩崎弥之助 深川邸洋館(1889年/明治22年)にも、写真でシュロが確認できる。

岩崎久弥茅町本邸.png

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上/岩崎久弥 茅町本邸(旧岩崎邸庭園洋館、1896年/明治29年竣工)
下/岩崎弥之助 深川邸洋館(1889年/明治22年竣工)
※2点とも『コンドル博士遺作集』(1931年/昭和6年)より。撮影年は不明だが、自然に考えるなら竣工時に撮影したものだろう。

さらに遡ると、あの鹿鳴館(1883年/明治16年)にもシュロが植えられていた。これもコンドルの設計である。いずれも庭の設計者は記録に残っていないが、コンドルは建築だけでなく庭園の研究もしていたので、彼が植栽の内容を指示した可能性は十分にある。

>>現在の旧岩崎邸庭園洋館の写真はこちら



ジョサイア・コンドルは1877年(明治10年)に来日したお雇い外国人で、日本近代建築の父と称される。工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)で教鞭をとり、数々の日本人建築家を育成した。

彼こそが、日本で「洋風住宅にシュロ」のきっかけをつくった人物なのではないだろうか。彼の影響で洋風とシュロの組み合わせが流行り始めたのではないか。私はそう推測している。

「シュロ景」でも紹介したように、正岡子規が1910年(明治34年)に「村落に洋館ありて椶櫚の花」という俳句をつくっている。「洋館にシュロ」が新しい風景として出現し、だんだん見慣れたものになってきた時期だったのだろう。

その後、大正期から昭和初期にかけて「洋館付き和風住宅(文化住宅)」が流行する。中流層の人々が「洋館」に憧れて建てたものだ。ここにもよくシュロが植えられた。洋館にシュロが植えられていたから、洋館付き和風住宅にもシュロを植えたのだろう。

その憧れは富裕層への憧れでもあった。シュロは洋風のイメージをまといながら、同時に「裕福さ」のアイコンにもなっていたはずだ。

>>昭和初期の洋館付き和風住宅(文化住宅)を再現した「サツキとメイの家」

戦後、高度成長期の戸建住宅に続々とシュロが植えられたのは、「シュロ景」にも書いたように南国ブームの影響もあったとは思うが、同時にシュロが当時、ある種のステイタスを感じさせる樹木だったからではないだろうか。明治以降、脈々と継承されてきた「上流のイメージ」が残っていたから、シュロは庶民の人気を得たのだ。

今のところはそのように考えている。



ジョサイア・コンドルはなぜ鹿鳴館や岩崎邸にシュロを植えたのか。理由は大きく二つあると考える。一つは彼が「19世紀のイギリス人」だったことだ。ヨーロッパでは当時、オリエンタリズムが流行していた。オリエントとはヨーロッパから見た「東方」全般を意味するが、特に中近東やインドを指すことが多かった。そしてヤシ科の木は、オリエンタリズムの要素の中でもポピュラーな記号の一つだった。

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『カイロの街並み』(プロスペル・マリヤ、19世紀前半)
フランス人画家によるオリエンタリズム絵画の例。ナツメヤシがシンボリックに描かれている。


ジョサイア・コンドルは1852年、ロンドンに生まれた。その3年前、1849年にはロンドン南西部にある王立植物園「キューガーデン」内に、巨大温室「パームハウス」が完成している。パームとはヤシ類のことだ。ここでは「東方」から集められた多種多様な熱帯植物を鑑賞することができた。パームハウスは大きな人気を博し、1851年には32万人超の入園者があったという。

この頃から、イギリスの上流階級の間でヤシの温室栽培が盛んになる。オリエンタリズムの流行もその要因だが、ヤシを収容できるほどの大型温室は、経済的な余裕を誇示するステイタス・シンボルでもあった(※1)。つまり当時のイギリスにおいて、ヤシの木は高級でおしゃれなアイテムだったのだ。ジョサイア・コンドルが生まれたのはそんな時代だった。

コンドルは24歳で来日し、大学で建築を教える傍ら、明治政府の要請で様々な建物を設計する。彼は当時のイギリスで主流だったヴィクトリアン・ゴシックをベースにしながら、イスラム風を折衷した建築を試みた。「西洋建築そのもの」を期待していた政府は、途中でそれに気づき苦言を呈したこともあったらしい。

例えば鹿鳴館はフランスのルネッサンス系スタイルをベースにしているが、イスラム様式の装飾が施されており、ベランダの柱頭にはヤシの葉のキャピタル(柱頭飾り)が取り付けられていた。そう、ヤシの葉である。

政府との契約が終了したのち、コンドルは岩崎家のパトロネージによって設計事務所を開業し、数多くの邸宅建築を手がけるようになる。岩崎弥之助 深川邸洋館は、コンドルによる最初の邸宅建築だ。全体的にはエリザベス様式だが、塔屋の一つがイスラム風の玉葱形ドームになっている。まさにこの塔屋の下にシュロが植えられている。

岩崎弥之助深川邸洋館02.png

岩崎久弥 茅町本邸(旧岩崎邸庭園洋館)はジャコビアン様式を基調に、ルネサンスやイスラム風などいくつかの様式を折衷している。

このような作風が、コンドル自身がシュロを選んだと推測する二つめの理由である。彼はおそらく、イスラム風のオリエンタルな要素と、日本の風土の接点としてヤシ科の木であるシュロを選んだ。

逆に、オリエンタルなテイストを持ち込んでいないその他のコンドル建築には、シュロは植えられていない。このように、建築の様式とシュロの組み合わせに明確な意図を感じられる点が、コンドル起源説の最大の根拠である。彼にはシュロを植える理由があった。

日本人はそうしたヨーロッパ側からの目線を共有していないにも関わらず、なぜかこの演出を好んで受け入れた。もともとシュロに異国っぽさを感じていたからだろう。

こうしてシュロは、古くからある寺社の境内にも、新しい洋風建築の庭にも似合ってしまうという二重性を持ち始めることになる。

さらにその後、後者のイメージ(洋風)の中にもう一段階、二重性が宿るようになる。それは「海」と「砂漠」だ。この真逆とも言える二つのイメージがシュロの中に同居している。私たちはシュロを見て海を思い浮かべることもあるし、砂漠を思い浮かべることもある。前者は南洋・島・砂浜のイメージであり、後者はアラブ・隊商・オアシスのイメージだ。

コンドルがシュロに託そうとしたイメージは後者だが、今は前者が優勢かもしれない。いずれにしても、シュロは常に「見立て」の中に立っている。この不思議な樹木を、私は今後も見つめ続けるだろう。



「洋風住宅にシュロ」ジョサイア・コンドル起源説。以上はあくまでも推測だが、状況証拠はある程度、提示できたのではないかと思う。実は今年2020年は、コンドルの没後100年にあたる。彼は日本文化によく親しみ、日本で家族をつくり、日本に骨を埋めた。東京・護国寺の墓所に眠っている。



※1 こうした嗜好は当然ながら植民地主義に支えられていた。イギリスの植民地のほとんどは熱帯地域だった。ヤシの木はその象徴でもある。

参考文献:
『ジョサイア・コンドル』(建築画報社、2009年)
『装飾デザインを読みとく30のストーリー』(鶴岡真弓、日本ヴォーグ社、2018年)
「英国の温室の歴史と椰子のイメージ」(新妻昭夫、『園芸文化』2004年6月)






posted by pictist at 15:54| 都市鑑賞

2020年06月11日

旧岡山刑務所の痕跡

現在、岡山市立中央図書館と二日市公園(岡山市北区二日市町)がある敷地には、1969年(昭和44年)まで岡山刑務所があった。この地に刑務所が置かれたのは1874年(明治7年)のことで、当時は「懲役場」と呼ばれた。その後「岡山監獄」と改称し、1922年(大正11年)より「岡山刑務所」となる。

二日市公園の南側には花崗岩の基礎が残っており、また一部、コンクリート塀の跡も見られる。

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岡山刑務所は1945年(昭和20年)の岡山大空襲で壊滅している。しかしコンクリート塀は残った。下の画像は米軍が終戦後、1946年(昭和21年)に撮影した映像よりキャプチャしたもの。

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デジタル岡山大百科|終戦直後の岡山(映像編:旧岡山刑務所の映像)より

周囲に水路があったことが分かる。現在は暗渠。

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デジタル岡山大百科|終戦直後の岡山(映像編:旧岡山刑務所の映像)より

残ったコンクリート塀は再建後も利用され、刑務所の移転後に解体されたのだろう。

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ところで、少し気になるのが上記の石積み(南側・旭川寄り)と、下記の石積み(南側・岡南町寄り)の雰囲気が異なることだ。

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なぜなのか気になるが、謎としてここに置いておく。隙間がセメントで固められているのは後年の修復によるものだろうと推測している。

この地にはかつて岡山藩の米蔵があった。『岡山刑務所の沿革』(昭和27年)に下記のような記述がある。

《この土地は旧岡山藩の米廩であって一歩蔵と言われていたのを修理改築して懲役場に充てたもの》

※米廩(べいりん)=米蔵のこと



この石積みがいつごろつくられたのかは分からないが、敷地を高くしたのは河川(旭川)のすぐそばだからだろう。旭川はたびたび氾濫したため、流域では石積みによって敷地を高くすることが多かった。今もあちこちに古い石積みが残っている。

さらに言えば、岡山は花崗岩の産地なので石造物がつくりやすかったという背景もある。

有名な文化財だけではなく、こうした日の当たらない遺物にも、実は「その土地らしさ」「岡山らしさ」が宿っているのだ。




posted by pictist at 00:48| 都市鑑賞

2020年06月09日

日本家屋の廃薬局

いろんな会社の経営者および従業員の方にお話を伺って、その内容を文章にまとめるというような仕事を長年やってるんですが、訪問先で必要以上にテンションがあがることがたまにあるんです。たとえば石灰工場の取材をしたときなんかは、夢中で写真を撮りまくりました。

過日、ある医院の取材をしたんですが(まだコロナ前で直接取材ができた頃)、そこですごいものを見まして。古い日本家屋の一室で営まれていた薬局の跡です。

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具体的な場所は書けませんが、岡山県内です。明治時代に建てられた家屋で、昭和に入って大幅な改装をしたとのこと。本業の医院とは別に、少し離れたこちらの建物でご親族の方が薬屋さんをしていたそう。

日本家屋と薬瓶の組み合わせが抜群によかったです。そんな作品はなかったと思うけど、なんとなく横溝正史の世界を思い浮かべたり。





タグ:都市鑑賞
posted by pictist at 18:33| 都市鑑賞

2020年06月06日

都市計画の中断が生んだ細長い公園

岡山市北区大和町にある公園「北方遊園地」は、妙に細長い。2本の道路に挟まれているとも言えるし、道路の真ん中にあるとも言える。マップを見ると分かるように、この道は線路につきあたって行き止まりになっている。クルマが頻繁に行き来するわけではないので、真ん中に公園をつくっても問題ないと判断したのだろう。



細長〜い敷地が3つ並んでいる。

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さらにマップを見ていると気づくことがある。この公園を含む道幅は、交差点の東側に続く道幅と同じだ。東西に太い一本のラインが見える。

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コピーライトマーク OpenStreetMap contributors

実はこの東西の道路は、主要幹線道路になるはずだった。線路を越すつもりだったので、まずはその手前まで用地取得・整備されたのだ。また、東側では旭川に橋を架ける予定だった。この計画がなくなり、かわりにつくられたのが現在の岡北大橋である(県道96号を結ぶ)。

この道路整備・延長は戦前から計画されていた。その名残が昭和15年(1940年)に建造された栄橋(岡山市北区中井町)だ。北方遊園地から東へ数百メートルの位置にある。

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新時代の技術だった鉄筋コンクリートでこのような凝った意匠の橋がつくられたことに、この道への期待が伺える。

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コピーライトマーク OpenStreetMap contributors

戦後もこの道の整備は続けられた。下の空中写真は1975年のもの。まだ北方遊園地はできておらず、交差点から西に「行き止まりの妙に広い道」がぽっかりと存在していることが分かる。

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国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より

線路の向こう側に道が接続される気配がまったく見られないところが切ない。栄橋方面から続く道が、ここでプツンと途切れている。

具体的にいつごろ計画中止(とルート変更)が決定されたのかは調べてないが、中止決定後、ある日、誰かが発案したのだろう。「ここに公園つくれるんじゃない?」と。

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国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より

こちらは1980年の空中写真。公園かどうかまでは分からないが、道路に島ができている。北方遊園地はこの頃に誕生したのだろう。戦前に構想された都市計画が、長い年月を経て、結果的に細長い公園を生み出したのであった。


※本稿をまとめるにあたって『おかやま街歩きノオト』著者の福田忍さんに貴重な助言をいただきました。感謝いたします。



posted by pictist at 20:27| 都市鑑賞