私はその話を聞くまで狭間という名称を知らなかった。ご存じない方も、下の写真を見てもらえばすぐに分かるだろう。お城の土塀にある、あの孔だ。戦闘の際に内側から鉄砲などを撃つためにあるので、通常は内側から外側へ向かって狭くなっている。それが岡山城では逆に、外側のほうが広くなっているというのだ。
見に行くと、たしかにそうなっている。


岡山城は1945年(昭和20年)の岡山大空襲で焼失し、現在の天守は1966年(昭和41年)に鉄筋コンクリートで再建されたものだ。この塀もその際、同時に復元されており、土塀のように見えるのは表面だけで、コンクリート製である。
これは復元の際のミスなのだろうか。それとも、見栄えを優先してあえてこのようにつくったのか。そもそも焼失前の、もとの土塀はどうだったのか。
岡山市が2014年(平成26年)に作成した報告書「岡山市都心創生まちづくり構想」の中に、岡山城の復元天守と土塀について触れている箇所がある。
引用
《復元天守と旧天守には細かい意匠の相違が数多く見られ、 正確な外観復元とはなっていない。》
引用
《本段を囲む土塀についても、芯がコンクリートブロックによる外観復元であるが、狭間の構造や配置が正確ではなく(中略)史実性を欠いている。》
具体的なことは書かれていないが「狭間の構造が正確ではない」というのだから、これはやはり逆向きのことを指しているのではないかと思う。
ところで、「史実性を欠いている」と指摘されているが、私はこのあたりの現象にとても興味がある。「構造の再現が正確ではない」から史実性を欠いていると言っているように読めるが、そもそもこれはコンクリート製なのだ。「史実性」とは何かを考えさせてくれる事例で、面白い。
私たちは、なにをもって「本物らしい」と思うのか。そんな問題にずっと関心を持っている。だから擬木などの「何かを似せたもの」につい注目してしまう。