
2016年12月3日、野村泰介さんが開催した「中塚浩が遺した昭和の写真 〜戦前・戦後の東京の日常〜」というスライドトークイベントに出演した。イベントの前後に考えたことをまとめておく。
野村さんが管理する中塚浩の写真ブログ
SUISHI'S PHOTOsuishi(すいし)こと中塚浩(1916-1997)は1940年代から半世紀以上にわたって日常の写真を撮り続けた。街並み、人々、店舗、乗り物、部屋の中……。しかし中塚は生前、その膨大な写真を他人に見せたことはなかった。家族を撮った写真でさえ、写っている当人に見せることはほとんどなかった。中塚の写真が「人に見せるための写真」ではなかったことは強調しておきたいポイントだ。
携帯電話・スマホに撮影機能が付いている現在、写真の持つ意味は昔と比べて少しずつ変化してきている。今なら、メモがわりにスマホで何かを撮るということはあるだろう。また、なんとなく目の前の景色が気になったから撮ったということもあるかもしれない。しかしフィルム時代においては、なかなかそのような撮り方はできなかった。
市井の人々は多くの場合、誰かと思い出を共有するために写真を撮った。だからアルバムに写真を貼った。中塚は自分の写真をそのようには扱わなかった。人に見せる必要がないので、ほとんどの写真は袋に入れっぱなしで、アルバムに貼られていない。
もちろん、「自分自身が後で見返して懐かしむために写真を撮る」ということは、私たちにもあった。それは特別な日や特別な場所を思い出に残すためだ。あるいは好きなモノ・好きな場所・好きな人の姿を手元に置きたいという欲望によってシャッターが切られた。
中塚の写真からは、そのような分かりやすい欲望は感じられない。とにかくなんでも撮っている。まるで見るものすべてを写真に残そうとしているかのようだ。

中塚写真の名作の一つ、銀行の窓口(1964年)

胃潰瘍で入院した際に撮った写真。病院の廊下の掲示板(1964年)
中塚はすべての写真に撮影場所と日付けを記しているが、はたして後年、それを見返していたのだろうか。どうもそのようには感じられない。段ボール箱に詰め込まれた膨大な写真袋を何度も出し入れしていたとも思えない。撮影し、記録し、保管した時点で本人の中では完結していたのではないだろうか。
また、中塚の写真はいわゆる「記録写真」とも違う。記録写真もやはり、あとで見返すために撮られるものだ。さらに言えば、あとで役に立つだろうという想定のもとに撮られる(社会的に、あるいは作品として)。しかし中塚は、自分の写真をのちのち何かに役立てようとはまったく考えていない。発表するつもりがないのだから。

自宅でなぜかミシンを撮る(1965年)
もう一つ。中塚は、「写真趣味者」「写真好き」ではなかった。写真を趣味にしている人の多くは、自己表現として写真を撮る。コンテストに応募する人もいる。大きく引き伸ばしてどこかに展示することもある。そして撮影技術を磨こうとする。
しかし中塚の写真からは「表現臭」が一切感じられない。50年間、撮影技術はほとんど向上していない。うまく撮ろうとしていない。ご家族も、中塚が写真雑誌や写真集を見ていたという記憶はないと証言している。
中塚浩の写真は淡々としている。だからこそ凄みがある。

なんでもない歩道(港区虎ノ門/1964年)
中塚の写真はしばしば「shoot1230」を想起させる。「shoot1230」とは、2010年に大山顕がツイッターで呼びかけ、現在も続いている実験的な写真遊びだ。毎日12時30分になったらどこで何をしていても強制的に写真を撮り、それをツイートするというもの。「shoot1230」は撮影者から「意図」や「欲望」を剥ぎ取る。参加者は「わざわざ写真に撮ったことのない何か」を、構図を練る間もなく撮らされてしまう。

岡電バス車内。晩年もこのような写真を撮り続けていた(1994年)
中塚は50年以上にわたって撮りためた写真を保管していたが、かといってそれを子や孫に託そうとしたりしていない。「後世の人に見てもらいたい」とも思っていない。ご家族は中塚の写真の存在を知らなかったので、彼の死後、写真の入った段ボール箱はあやうく廃棄されるところだったそうだ。孫の野村泰介さんがたまたま「発見」し、救出したことで日の目を見た。
今回のイベントのタイトルを野村さんと相談して「中塚浩が遺した昭和の写真」と付けたが、実際は「遺した」のではなく、たまたま「遺った」のだ。撮影者の人生とともに消えていたはずの写真を、私たちは偶然目撃したに過ぎない。
中塚浩の写真は、何も問いかけない。何も問いかけてこない写真を見て、私はさまざまなことを考えてしまう。
【追記】
上の文章を書いてだいぶ経ってから、ふと思い到った。そうだ、彼は「ログ」をとりたかったのだ、と。私は当初「まるで見るものすべてを写真に残そうとしているかのようだ」と感じたが、彼は「残す」ではなく、「ログをとる」という欲望によってシャッターを切っていたのではないだろうか。前者と後者はいっけん同じもののように感じるが、実は別種の心理なのだろうと思う。
【追記2/2022年4月13日】
上記からさらに数年が経過しました。今日、『美術手帖』2022年4月号に掲載されている原田裕規さんのインタビューを読んでたんですが、本エントリを考える上でヒントになりそうなくだりがあったので、引用します。
《写真を撮るという行為は、必ず訪れる死への抗いのような感情と結びついている気がします。ただ、その抗いはつねに失敗することが確定している。でも、そんな経緯で物質化した写真が「残ってしまっている」という現実そのものが、抗いの失敗の失敗でもあると思うのです。》
posted by pictist at 00:00|
イベント