雑誌掲載時はほぼ文章だけでしたが、転載にあたって私の撮影したシュロ景写真や補足リンクを挟み、また若干の加筆・修正を行いました。

シュロ景/内海慶一
シュロが気になっている。
よく庭木として植えられている、あの南国風の樹木である。シュロの植えられた家を見ると、いつもハッと立ち止まってしまう。なんというか、唐突なのだ。子供の頃からよく目にしているはずなのに、その姿に慣れない。慣れないどころか、近年唐突感は増すばかりである。
この感情はなんなのだろう。シュロの唐突さがイヤなのか、と言うとイヤではない。むしろあの「ハッ」を反芻している自分がいる。ひょっとして私はシュロが好きなのだろうか。恋の予感とはこんな気持ちだったか。
自分でもよく分からない感情をもてあましながら、シュロ景を見かけるたびに写真に収めている。シュロ景とは、もちろんシュロのある風景のことだ。

シュロはなぜ唐突なのか。
まず、あのモジャ毛である。幹を覆うモジャモジャした繊維。シュロを見るたびに「どうして」と思わずにはいられない。なぜお前はモジャモジャなのだ。
そして何よりあの高さ。成長したシュロは、ギョッとするほど背が高い。中には二階の屋根を越しているものさえある。そんなに高くならなくてもいいじゃないか。
おそらく植えた当初はここまで高くなるとは思っていなかったのではないか。それが三〇年、四〇年という年月を経て、ついに屋根を越したのだろう。まさかの屋根越えである。

始めに「南国風の樹木」と書いた。シュロはなんとなくヤシの木を連想させるからだ。その南国風の木が瓦屋根の家の庭に植えられているというミスマッチ感が、唐突さの主要成分だとも言える。
しかしヤシの木(ココヤシ)をよく見ると、シュロとはかなり違う姿をしていることが分かる。ココヤシにモジャ毛はないし、葉の形状も異なっている。シュロの葉は掌葉(手のひらを広げたような形)だが、ココヤシは羽状複葉(鳥の羽根のような形)である。こんなに異なる樹木を、なぜ我々は一緒くたにしてしまうのか。「なんとなく佇まいが似ているから」としか言いようがない。
>>ヤシ
シュロもヤシ科の植物だが、しかし在来種である。例えば戦国時代の武将、佐々成政(さっさなりまさ)で知られる佐々氏の家紋は棕櫚(シュロ)だ。
昔から日本に自生している木を、日本人はある時から「南国風」と認識するようになったのである。シュロは戸惑ったことだろう。急にいろんな人から「外人っぽい顔ですね」と言われるようになったのだから。
【追記】後日、『枕草子』にシュロが登場することを知った。「すがたなけれど、すろの木、唐めきて、わるき家のものとは見えず」と書かれている。「趣のある様子はない(=外見は悪い)が、シュロの木は異国的で、貧しい家のものとは見えない」という意味だ。なんとシュロは1000年前からずっと「異国風」だと思われているのだ。
ちなみにシュロにはトウジュロ(唐棕櫚)とワジュロ(和棕櫚)があり、その名の通りトウジュロは中国から移入されたもので、ワジュロは日本の種だ。ワジュロのほうが葉が大きく、葉の先端がわずかに垂れるのが特徴。だが見た目に極端な違いはない。

江戸近郊・染井の植木屋、伊藤伊兵衛が一六九五年に著した園芸書『花壇地錦抄(かだんちきんしょう)』にも、トウジュロとシュロの項目がちゃんとある。トウジュロは「葉しゃんとして手つよくかたし」、シュロの項には「つねのしゅろなり」とある。「つねのしゅろ=通常のしゅろ」という言い方が、当時すでによく知られた木だったことを表している。しかも園芸書に載っているということは、鑑賞用の庭木として定着していたのだ。
また蕉門の俳人、野童は「棕櫚の葉の霰(あられ)に狂ふあらしかな」と詠んでいるし(一六九一年)、与謝蕪村は「棕櫚に叭叭鳥図(ははちょうず)」という襖絵を描いている(一七六四〜一七七二年頃)。シュロは近代以前から日常の中にあった。

日本人がシュロを「南国っぽい」と思うようになったのは、日本人の中にヤシの木=南国というイメージができあがった後だろう。
南洋幻想という言葉がある。どことも知れない「南の島」に対して日本人が漠然と抱く憧れや郷愁のような感情を指して言う。南洋幻想が生まれたのは明治以降であり、日本人がシュロとヤシの木のシルエットをダブらせ始めたのもその頃からなのではないかと想像できる。
明治から大正にかけて南洋ブームがあった。南進論、南洋探検、南洋冒険小説などキーワードには事欠かない。第一次大戦後には日本によるミクロネシア(南洋群島)の統治と同島への移住、貿易が始まり、ますます「南国」は近くなる。それに伴ってシュロのイメージも「南国化」していったのかもしれない。

その一方で、シュロは日常生活と密接につながっている樹木でもあった。江戸時代以前よりシュロ皮の繊維からは縄、たわし、箒、蓑、下駄緒などがつくられていたし、葉は下駄表や敷物、座布団などに加工された。貝原益軒の『大和本草』(一七〇九年)にも「木は槍の柄とす。皮毛を箒とし、葉をも箒とす」とある。そして明治に入ってシュロの加工は一大産業となり、昭和初期には最盛期を迎える。
あのモジャ毛がれっきとした産業を形成していたとは。おみそれしました。モジャモジャ言ってすみませんでした。
しかしその後、安価なココヤシの果皮(パーム)がシュロ皮の代替品として輸入され始めたことで、シュロの需要は徐々に減っていく。さらに戦後、化学繊維の登場によりシュロ産業は衰退していった。

初夏に咲くシュロの花。特に美しくはない。
「製品原料としてのシュロ」が必要とされなくなっていったその頃、第二次大戦をはさんでハワイアン(音楽)ブームが起こっている。バッキー白片や大橋節夫などの率いるハワイアンバンドが人気を博し、歌謡曲でも岡晴夫『憧れのハワイ航路』が大ヒット(一九四八年)。一九五三年には戦後初の海外ロケ映画『ハワイの夜』が公開される。一九五四年、これもハワイロケを行った喜劇映画『ハワイ珍道中』が公開。
一九六一年、テレビCM「トリスを飲んでハワイへ行こう」が話題に。一九六二年、エルヴィス・プレスリー主演映画『ブルー・ハワイ』日本公開。一九六三年、「アップダウンクイズ」放送開始。キャッチコピーは「一〇問正解して、夢のハワイへ行きましょう」。同年、加山雄三主演『ハワイの若大将』公開。一九六四年、舟木一夫主演『夢のハワイで盆踊り』公開。一九六六年、福島県に常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)オープン。
>>トリスを飲んでHawaiiへ行こう!
ちなみに海外渡航が自由化されたのは一九六四年のことだが、その年、渡航を申請した人の半数がハワイ旅行へ行ったという。しかしまだこの時期、海外旅行は一部の富裕層のものであり、多くの庶民にとってはまさに“夢のハワイ”だった。

葉を手入れしないとこんな姿に。
このようなハワイ人気を含む「南国ブーム」が六〇年代に起こり、それと並行して「新婚旅行ブーム」が到来する。新婚旅行先として絶大な人気を誇ったのが宮崎県だった。そこは、当時の人々が国内に“発見”した南国だった。
この宮崎への新婚旅行ブームには様々な要因があった。まず第一に、宮崎が「南国」というコンセプトのもと演出されたまちだったということ。発案したのは「宮崎県観光の父」と呼ばれた宮崎交通グループ創始者・岩切章太郎。岩切は戦前から日南海岸にフェニックス(カナリーヤシ)の植栽を行っていた。フェニックスはもちろん外来種で、昭和に入って初めて国内での生育に成功した樹木だ。
>>カナリーヤシ(フェニックス)
舞台は整っていた。一九六〇年に島津久永・貴子(昭和天皇の第五皇女)夫妻が新婚旅行で宮崎を訪れ、宮崎という地が一躍脚光を浴びる。さらに一九六二年には皇太子夫妻が旅行で宮崎を訪れ、人気が高まった。日南海岸は「プリンセスライン」とも呼ばれ、花嫁の憧れとなった。
そして一九六五年に放映されたNHK連続テレビ小説「たまゆら」により、宮崎人気は不動のものとなる。これは川端康成が同番組用に原作を書き下ろしたもので、同時代の宮崎を舞台にしていた。最高視聴率四四・七パーセントを記録したという。
一九六七年にはデューク・エイセスの「フェニックス・ハネムーン」がヒット。宮崎を訪れた新婚カップルをテーマにした歌である。
一九六七年から一九七二年にかけて京都〜宮崎間に「ことぶき」号という新婚旅行客専用の臨時急行列車が運行されていたというから、宮崎人気がいかに高かったかが窺い知れる。

高度経済成長期という背景に加え、婚姻件数の増加がこのブームに拍車をかけた。特に団塊の世代が二十代に入った六〇年代後半から七〇年代初頭にかけて爆発的に件数が伸びる。ピークは一九七二年の一〇九万九九八四組。一説によるとこの年の新婚カップルのうち二十八万組が宮崎へ新婚旅行に行ったという。
ちなみに私が生まれたのがまさにこの一九七二年で、第二次ベビーブーム期にあたる。
このように振り返ってみると、少し古めの昭和スタイル住宅でシュロを見かける理由がよく分かる。南国情緒を愛した六〇〜七〇年代の夫婦が、新居の庭にどことなくヤシの木の面影のあるシュロを植える。それはごく自然なことだったのだろう。時代のニーズを読み取った造園業者の戦略があったのかどうかは分からないが(シュロ産業の衰退でシュロの木は“余っていた”はずだ)、いずれにしてもそれを多くの人が受け入れたのである。

昭和以前にもシュロを植える家はあった。例えば正岡子規は「村落に洋館ありて椶櫚の花」という俳句をつくっている(明治三十四年/一九〇一年)。この頃から洋風住宅に植えられることが多くなったようだ。また前述したように江戸時代からシュロは庭木として認知されていた。ただ、まだ数は少なかったはずだ。
>>旧岩崎邸庭園(明治二九年/一八九六年竣工)
庭木に関する本をいくつか見てみると、興味深いことに、一九六〇年代に発行された書籍にはほとんどシュロが出てこない。例えば『庭木』(岡本省吾、一九六三年)という本には、フェニックス、ワシントニア、ソテツ、ビロウなどの南国風(とされている)植物が載っているにも関わらず、シュロは見あたらない。一九六八年に発行された『新しい庭木200選』(伊佐義朗)にもシュロの名はない。
しかし七〇年代に入ると、突然シュロが主役に躍り出る。『庭木 作り方と手入れ』(妻鹿加年雄、一九七五年)には詳細にシュロが紹介されているし、『庭木の手入れと管理』(小宮山載彦、一九七四年)には巻頭ページにシュロの写真が載っており、「洋風建築とマッチしたシュロ」というキャプションが添えられている。
それまでは洋館などに植えられていたシュロが、一九七〇年前後を境に「一般的な庭木」になっていったのだろう。
こうして過去をひもといてみると、暑苦しいシュロのモジャ毛にも労いの言葉をかけてやりたくなるし、あの素っ頓狂な高さだって、むしろ微笑ましく思えてくる。
私はシュロが好きなのだろうか。ここまで調べておいて好きも嫌いもないだろうと言われるかもしれないが、いまだによく分からない。気になるとしか言いようがないのだ。これからもシュロ景を見かけたら写真に収め続けるのだろう。
薬草の本を見ていたら「シュロは鼻血止めに用いられる」と書いてあった。あのモジャ毛を黒焼きにして、直接鼻に詰めるのだそうだ。いつかやってみようと思う。
「シュロ景」
初出『生活考察』Vol.2(2010年10月発行)
